Entries from 2021-03-01 to 1 month
池田長発は、1879年(明治12年)9月12日、42歳(数えで43歳)、岡山県岡山市で病により生涯を終えました もともと江戸生まれの江戸育ち、江戸っ子 その上、領地は井原ですから、にわか岡山 とはいえ、フットワークの軽い彼が10年以上落ち着いて暮らしたので…
(たぶんこうだったんじゃないか劇場) 日本に帰国後の長発、元治元年(1864年)夏から慶応2年(1866年)3月ころまで、長発は約1年半の間、蟄居処分を受けました 長発は、寺に寄進をして出家したという体裁をとりつつ、実は烏森の本邸で晴耕雨読の生活を送っ…
井原市史Ⅳ 23ページ 館長池田長発「心学館掲牌三則」 明治2年(1869年)2月 汝等領民、須早入此館、識文字以明孝悌、以勤稼穡世業 学之根本、須以朱子白鹿洞掲示及孝経大学為主、而広渉百子固不妨 詩書勤乃有、不勤腹空虚、是韓文公之詩也、入是館者、須以勤…
池田長発は、井原知行所旗本池田筑後守陣屋跡を「心学館」という私塾設立に使うつもりで、明治2年あたりから着々と準備を進めていました ところが、その4年後の明治6年(1873年)3月、心学館の予定地であった井原知行所旗本池田筑後守陣屋跡は、長発を名代と…
幕府が推奨していた「朱子学」に優秀だった長発 同時に、彼は、納得すればアッサリ方向転換できるという、柔軟な気質の持ち主です 慶応4年(1868年)5月18日の池田長春誓書(長発が長春の名代として代書)では、徳川慶喜を鋭くディスり、朝廷への忠誠を誓っ…
1867年の秋から1868年の早春にかけて、長発は江戸の屋敷を引き払いました そして、長春(養子)その他の家のものを連れ、岡山に移り住みました 以降の長発の暮らしは 「当初の予定では岡山滞在は一時的なもので、目的地はあくまでも井原領だったが、池田長発…
苦労のかいあり、一行はエジプトに到着、1864年2月23日にエジプト国王と会見 同月28日には、この有名な写真を撮りました よじ登って収まっているのが池田長発 うすぼんやりしている人を含めて25人程度 ということは、9人欠けています これらの欠席者は体調を…
なんだかんだで二回ほど船を乗り換えたところで、池田長発の大荷物に紛れていた日本酒樽が発掘?されました しかも灘の銘酒 これを皆様で痛飲されました 多少は旅のお疲れも和らいだことでしょう 【汽車とトイレ】 当時はスエズ運河が建設中で、インド洋から…
【臭い・・・】 往路で上海で上陸し、一行はアストロ・ハウスというホテルに宿泊 その翌日、一行は再び乗船 船の食堂で食事中、副使の河津伊豆守が 「この食堂は臭い」 と、しきりに言う mizunonamboku.hatenablog.com もっとも、ひぃずちゃんの「航海日誌」…
文久3年12月28日(1864年2月5日)、江戸を出発した池田長発以下34名は、上海・香港・セイロンなどを経由して、一路ヨーロッパに向かいます このうち何人かが日記を残しています 私が史実として一番参考にしているのは、岩松太郎の「航海日記」(遣外使節日記…
あちこちの文献に、殿の言動の記載が少しずつあったりします もっとも、当時10代の益田孝とひぃずちゃん、髪結の青木を除くと、恐れ多いのか、殿の言動を引いたものは見受けられない 日本に帰国したのちの建白書も、池田長発の他、河津及び河田との3人の合作…
(1863年) 6月25日 アメリカ商船を、長州藩が、下関で打ち払う 7月13日 フランス通報艦キンシャン号を、長州藩が、下関で打ち払う(フランス側4名死亡) 7月16日 オランダ東洋艦隊メデューサ号を、長州藩が、下関で打ち払う(オランダ側4名死亡) 7月20日 …