井原市史Ⅳ 23ページ
館長池田長発「心学館掲牌三則」
明治2年(1869年)2月
汝等領民、須早入此館、識文字以明孝悌、以勤稼穡世業
学之根本、須以朱子白鹿洞掲示及孝経大学為主、而広渉百子固不妨
詩書勤乃有、不勤腹空虚、是韓文公之詩也、入是館者、須以勤為最第一事
右三則、是今茲己巳二月所定也、後更俟改張、応置教頭以斟酌増損矣
・・・
最後には
「これは現時点のものだから、後に変更可能」
としており、長発の柔軟な思考が伺われます
その他、教頭を置く予定で、長発が専制君主になる気は全くなかったことが分かります
さらに、庶民(領民)向けの学校を考えていたようで
「文字を学ぶなどしながらも、しっかり働こうね」
という内容になっています
つまり、長発は、国の学制発布(明治5年)や福沢諭吉の「学問ノススメ」(明治3年ころ)よりも早く、庶民の学習の場を提供する準備を進めていたのでした
しかも、庶民向けの実学の場を無償で提供するという、言うは易し行うは難しを言行一致して実行しました
こうしてみると、心学館が尋常元小学校となったのは、自然な流れです
そういう長発の先見の明と熱いパッションは分かるんですが、漢字がめちゃめちゃ難しい
まずもって「掲牌」ってなんですか?と
そういう素晴らしすぎる漢文ゆえ、未だに誰もネットに掲載しておらず、したがってコピペもできず、漢字の苦手な私が井原市史から手打ちで書き写す際には四苦八苦しました😿
間違っていたらごめんなさい
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