(初稿:2021年1月11日)
(修正:2024年12月10日)
IKEDA Tsikougo-no-kami (or Chikugo-no-kami) Nagaoki (1837-1879)
「ナダールの写真は、人の内面まで映す」
19世紀後半のパリで評判の高かった写真家が、ナダール(1820~1910)
そのナダールが撮影した池田長発の、代表的な写真がこちらです
当時のパリジャン・パリジェンヌの間では、ナダールに写真を撮ってもらうことが流行っていました
池田遣欧使節団(1864年パリ滞在)も、ナダールに写真撮影を依頼して写真を名刺と一緒に交渉時に配っていました
益田孝の「自叙益田翁伝」によれば、相当数の撮影がなされた模様です
髷(まげ)がなく、前髪を上げ、後ろに長髪を束ねており、 今のイケメン俳優が時代劇の衣装を着ているようですが、現実に江戸時代末期~明治初期を生きた方で、旗本4男坊です
当時の長発は超のつく真面目人間であったと伝えられています
第二次遣欧使節団では、団員が海外で羽を伸ばして悪所巡りをしていたときも、長発は書籍を買い集めていたそうです
が、このお写真は、ナダールの才覚ゆえに、長発の内面を表しているのかもしれません
実際のところ、29歳で海軍奉行並を辞したころから、長発はモテ男ぶりをいかんなく発揮することになります
幕末に政府軍を応援するために来日したフランス人が、長発に対して
「人生は愛だ」
みたいなことを吹き込み、思い込んだら一直線の長発が触発されたのでは・・・と、私は勝手に推測しています
ちなみに、池田長発の実のおじいさまも、やんちゃだった模様
不行状につき御家取り潰しの危機にさらされたところ、その子供、つまり長発の父親が押し込み家督相続をし、これが追認されてお取り潰しが回避されました
・・・
池田長発の略歴を以下にまとめますが、未だ研究の詰めの甘い分野であり、基本的な事項ですら文献によって相違が見受けられます
明らかな誤りは取らず、諸説ある場合はより正確と目される「井原市史Ⅳ」をベースに記述します
1837年8月23日(天保8年7月23日)、7000石の高禄であった直参旗本池田加賀守長休(ながのり)の4男として、江戸で生まれます(母親は室ではなく侍妾、名は不詳)
この年には大塩平八郎の乱が起きました
またアメリカ船のモリソン号が浦賀に現れ、日本中が大騒ぎになりました
それ以前の1792年に根室にロシアのラクスマンが、1804年に長崎にロシアのレザノフが、その後も外国船が日本にしばしば押し寄せたために1825年に幕府から外国船打払い令が出されました
それにもかかわらず、1837年、江戸に近い浦賀にアメリカ船が現れたので、大騒ぎになったという次第です
もっとも、モリソン号は、親切にも漂流民となっていた日本人7名を救出後に日本に送り届けようとしたのです
それにもかかわらず、モリソン号に対して、外国船打ち払い令を理由に、薩摩藩と浦賀奉行が砲撃したため、日本国内でもこれに対する批判が巻き起こり、1839年の蛮社の獄につながります
このころから海外との往来が活発化し、数年ごとにコレラなどの深刻な感染症が蔓延するようになりました
さて、池田長発は、幼少時から頭脳明晰かつ闊達
エリート校の昌平黌(昌平坂学問所)に入学したのちは、和漢洋・やり術・馬術・鉄砲術などで常にトップクラス、怜悧(れいり)で優秀な少年として知られました
嘉永(かえい)5年(1852年)11月25日、池田長発は16歳で井原に陣屋を構えていた池田長溥(ながひろ)の養子となります
また、同日、池田長発は養父・池田長溥の4女・絖子(天保11年、1840年生まれ、当時12歳)と婚姻します
1853年(嘉永6年)、池田長溥の死去に伴い、17歳で家督相続
1860年(万延元年)5月6日、長発19歳のとき、江戸烏森本宅にて絖子が長女を出産するも、長女は同月8日に死亡
1862年(文久2年)、24歳という若さで目付、さらに翌年には火付盗賊改、京都町奉行と、次々に大役を拝命
1864年2月(文久3年12月)、26歳外国奉行及び第二次遣欧使節団の団長としてフランスに派遣されました
長発一行は、井土ヶ谷事件の賠償交渉や横浜鎖交交渉に当たり、賠償問題は解決
しかし、横浜鎖交交渉は断念
2~3年の予定を8か月程度(移動時間込み)で帰国
帰国後、長発らは幕府に対しては開国等を建白したため、蟄居・隠居・禄高半減を命じられます
なお、元治元年7月23日、この処分に前後して、長発の養子として、長発の実兄・長顕の5男である長春(1861年、文久元年5月25日生まれ、母は侍妾・渡辺トキ子、侍・渡辺善蔵の娘)が家督相続しました(当時3歳)
これにより、井原領池田家はお取り潰しを免れました
1867年2月(慶応3年)、29歳(数えで31歳)で長発は海軍奉行並に任ぜられました
在任期間には諸説ありますが、最有力節では3か月ほどで病気を理由に辞任した、となっています
もっとも、当時は、幕府の役人が職を辞退するときや辞職するときには、病気を理由とするのが作法でしたから、真実は不明です
(長発よりも先に第二次遣欧使節団団長を打診された方も病を理由に辞退、その後に長発にお鉢が回ってきたという次第です)
直後に、実働とはなり得ない6歳の長春にも幕府からの要職が与えられ、さらに長春には今でいうリモートワーク(江戸を離れ岡山で仕事をすること)も許可されていますから、幕府がかなり熱心に長発をつなぎとめていたことがうかがわれます
その後、長発は岡山に移りました
その旅路の明治元年1868年の6月17日(旧暦の日付)、京都で女の子が生まれています
同でもいいことですが、この誕生日、偶然にも私の誕生日と同じです
また、この女の子は、後に長春と婚姻しました
岡山では、長発は、花鳥風月を楽しむ暮らしを悠々自適に送った、と伝えられています
【お写真の数々】
こちらのお写真は、撮影場所及び撮影日時不明
井原市史Ⅳ 巻頭写真 10ページから引用
前列左:副使の河津伊豆守祐邦(当時42歳)
前列中央:正使の池田筑後守長発(当時26歳)
前列右:目付の河田煕(当時28歳)
私の推測ですが、お殿様と一緒に外国人がフランクに入り込んでいるので日本ではなく、また皆さまお疲れでやせ細っているので往路のどこかという気がします
池田長発のみシャキッと領主様風
池田長発の左手側にある「ねじねじステッキ」、これからもしばしば登場しますが、主に旅の前半で見られるもの
副使の河津も同じものを持っていますが、お疲れのご様子
スフィンクスの横っ腹によじ登ってヤンキー座りをしているのが池田長発
前列左から二番目で陣笠を持っているのが、益田鷹之助
その左後ろでそっぽを向いているのが、鷹之助の息子である益田進こと益田孝(親子での参加はNGであったが、孝はどうしても洋行したかったので、偽名を使って鷹之助の従者として参加、後の起業家)
池田長発が令和系イケメンとすれば益田孝は昭和系イケメンなので、別講を設けようと思います(ミーハー)
スフィンクスの首のあたりに写っているのが、山内六三郎(堤雲)、後の鹿児島県知事、初代八幡製鉄所長官
そのすぐ隣で薄ぼんやりしている影(脚がちょっと写ってる感じ?)が、池田長発に懐いていた三宅秀(みやけひいず、後の東京帝国大学医学部の初めての医学博士、貴族院議員)
この方もまじめな若者で、パリでは医療施設の見学に足しげく通い、医学書や医療機器などの収集に余念がありませんでした
大変キュートでユニークな方なので、こちらも別稿を設けようと思います
パリでの長発は、写真と一緒に名刺も配っていたそうです
夷狄の国へ : 幕末遣外使節物語 - 国立国会図書館デジタルコレクション (ndl.go.jp)
絶版本は少しずつ国立国会図書館がデジタルで提供してくれるようになりました
目をぱっちり開けているお写真は、結構珍しいです
実直な若手外交大使という感じ
お気に入りのねじねじステッキとご一緒ですね
名刺部分の拡大
ベースは銅板で印刷されたもの
①池田家の家紋である蝶の刻印があります
②フランス語の表記
Ikeda Tsikougo-no-kami
ファミリーネームが先に書かれるという、21世紀仕様です
「筑」(Tsikou)の発音表記に、知恵を絞られた跡があります
③最終行はフランス語での肩書
Ambassadeur de L M. le Taicoun du Japon
日本の大君(たいくん、将軍)の大使
④ ①と②の間
池田筑後守
(いろいろな画像を拝見しましたが、少しずつ違うので、日本語部分は活版印刷ではなく、手書きのようです)
日本人でこの手の紙の名刺を使ったのは、池田長発が初と言われています
(それまでは、中国風の木札があった程度)
揚羽蝶の陣羽織で、いざ出陣
前列左:副使の河津伊豆守祐邦(当時42歳)
前列中央:正使の池田筑後守長発(当時26歳)
前列右:目付の河田煕(当時28歳)
斜に構えたポーズで、これもモデルさんっぽいです
池田長発、8頭身です
お気に入りのねじねじステッキをお持ちです
陣羽織の蝶柄が良く見えるような着方をされています
おしゃれにこだわりをお持ちです
長発の子孫の方は、今でも、このときに長発がお召しになっていた陣羽織を引き継いでいらっしゃいます
陣羽織には、美しい蝶の刺繍が施されています(池田家の家紋が蝶)
「世界ふしぎ発見:2017年11月11日放送:海を渡ったサムライ スフィンクスと写真を撮った男たち」に、その映像があります
陣羽織のサイズから、長発は長身であったことが分かります
ズームアップ・・・
パリでの集合写真
これを一部ズームアップすると
前列向かって左が池田長発
やはり緊張のご様子はない ー それにしても、顔、ちっさ!首、ほっそ!
そして河田のアニキ感と、 後ろお二人の気迫 ー 「俺たちのお殿様に手出ししたら、ただおかじゃねぇ」という感じです
ぐるぐるステッキがきれいに写っているのがこちら
カイロにて by Antonio Beato
このころ、船旅と鉄道旅がかなりつらくて(この話はまた後日)、一行の皆々様がぼろぼろ
然しもの池田長発も、疲れを隠せない
「俺、疲れてんすけど・・・撮るんすか ٩(๑`н´๑)۶」
(でもスフィンクスにはよじ登った)
こちら、画質は悪いのですが・・・
池田長発 & 池田家の家来(金上佐輔と思われる)のツーショット
やさしいお父様と自慢の息子の家族写真のような、リラックス感が伝わります
長発が笑顔の写真は、アルカイックスマイルにせよ、とても珍しい
右足を組み、左足をクッションの上にのせている
(スタイルがいいので、クッションなしでも大丈夫そう)
お召し物の裾がダイアナ妃のウエディングドレスのように長い - と思ったら、椅子の背もたれからカーテンか何かを垂らしているようです
フェイスブック(アメリカ人と思しき方のページ)から発見したお写真
「儒者・池田長発」という感じですね
撮影日不明、撮影場所不明(日本かフランスかも不明)、撮影者不明、原典不明
アングル的に同じ写真が井原市教育委員会のビデオにもありましたので、長発であることは間違いないようです
こちらの「動画を見る」をクリック
3:52あたりに、長発の画像として、多少画質は違うものの、同じアングルの写真が出てきます
【おすすめの資料】
・井原歴史人物伝 第3回 池田長発
http://mahoroba.city.ibara.okayama.jp/detail_j.php?id=51&map=s
【ぐるぐるステッキと一緒にお散歩?】
・フランス文化省所管の写真保存センター(Mediatheque Patrimoniale Archive Photographique)
1851年以降の「写真ガラス原板」を保存しています
2016年から2018年にかけて、日本の研究者チームが、幕末~明治維新ころの日本人を撮影した多数の温板ガラス写真原版の解析をしました
https://kaken.nii.ac.jp/en/file/KAKENHI-PROJECT-16K02994/16K02994seika.pdf
日本政府の支給額360万円・・・もっとキチンと研究にお金をかけようよ
https://www.ibarakankou.jp/info/info_event/2018101312249.html
おきものの上品な質感がよく映っていますね
堂々とした態度と左手の「抜け感」が素敵
池田遣欧団に「洋装禁止」のルールさえなければ、池田長発の洋装のお写真も残されたでしょう
随行員の中には、半洋装というギリギリセーフ?で写真を撮った人たちもいました
【悩み多きお仕事・・・それとも、読書の手をふと止めたところ?】
撮影場所、撮影者、撮影日時不明
・オールバックの髪型
・右手は頬杖
・左手はポケットの位置へ(ただし和装にポッケはない)
・足は幅をとりつつも前後にずらす
・視線はカメラから外している
当時のパリのトップクラスのモデルさんや俳優さん級のポージングの数々
驚きを禁じ得ませんん
日本人としては異次元級のセンスの良さです
白洲次郎が「ジーンズの似合う初めての日本人」と評されることがありますが、池田長発はその100年近く前にそれっぽいことを和装でやってのけていたという
【参考書籍】
お写真は、注記がない限りはネット空間に漂っていたパブリックドメインを掲載させていただきました
出所が分かり次第、少しずつ情報を追加していきます
・「文久航海記」三浦義彰
(三宅復一の書き残したものを写した部分がお勧め)
・「拙者は食えん!」
・「遣外使節日記纂輯 第三」
・「自叙益田孝翁伝」
・「井原市史Ⅰ」及び「同Ⅳ」
第1453回
海を渡った幕末のサムライ
スフィンクスと写真を撮った男たち
2017年11月11日 夜9時~
本日もお読みいただき有難うございました