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英検1級保持者:アステラス、1400円台ならば買っていいのでは?

池田長発(5) 齋藤次郎太郎 & 山内六三郎

「すみ」さんの可能性のある浦本時蔵さん

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浦本時蔵が仕えていたのが、齋藤次郎太郎でした

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なんかなー、昭和のパワハラ感が・・・

 

この写真の一番右側の人も、齋藤次郎太郎

すっかりナダールの子供と仲良くなっています

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齋藤次郎太郎は、1864年8月19日使節団帰国以降の活躍の記録が、日本では見当たりません

(シンプルに私の調査不足だったらゴメンナサイ)

 

池田長発遣欧使節団一行がパリを発つ日、齋藤次郎太郎含め4名は、滞在中の諸費用清算のためにパリに残りました

4名はパリでの会計処理が終了したのち、マルセイユで一行と合流する予定で、うち2名はマルセイユで合流した記録があり、一人はその後に帰国した記録がありますが、齋藤次郎太郎だけは記録がありません

一行は帰途のマルセイユに長期滞在していますし、慣れない外国とはいえ齋藤次郎太郎だけ合流できなかったというのは奇妙です

 

そもそも、なぜ一行はマルセイユに長期滞在したのか

 

(推測①)

フランス外交筋が、在日フランス領事館に、先に連絡を入れるため

「何事もよしなに

 決して長発らが咎を負わぬよう、長発らの帰国前に幕府を説得せよ

 長発は、条約締結後、ホテルで切腹騒動を起こしており、こちらもなだめるのに大変難儀した

 ナポレオン三世のお気に入りであり先見の明のある長発らを、決して軽んずべからず」

という連絡をするため

 

(推測②)

齋藤次郎太郎を待っていた

 

・・・

 

さらに、シーボルト側に、長発一行が帰国したのちの日付で、斎藤次郎太郎に関する不可解な記録が残っています

 

1864年8月22日(元治元年7月21日)、9月14日(8月14日)、9月24日(8月24日)

「徒目付齋藤次郎太郎が、ベルギーのシャトウ・ドゥ・アンジェルムンスター(Chateau d’ Ingelmunster)から、シーボルト宛に手紙を送付」

 

・1865年5月25日(慶応元年5月1日)、6月2日(5月9日)

「齋藤次郎太郎が、パリからシーボルト宛に手紙を送付」

 

・1865年6月8日(慶応元年5月15日)

「山内駿河守六三郎がパリからシーボルト宛に日本語で手紙を送付」

 

✧六三郎は1864年に日本に帰国していますし、通詞の彼がシーボルトに対して日本語で手紙を書くというのは不自然です

 したがって、シーボルトから返事がもらえない齋藤次郎太郎が、六三郎の名前を拝借した可能性もありそうです

 

 

ちなみに、山内駿河守六三郎は、御手附翻訳御用出役・外国奉行であり、またの名を山内提雲とも言います

1838年11月3日~1923年2月5日)

 

池田長発の一歳年下で、蘭学を専攻していました

半分洋装がお似合いのおしゃれさんで、スフィンクスの首元によじ登って写っている人でもあります

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六三郎は、後の1868年の函館戦争に参加してジュール・ブリュネ大尉らの通訳となり、その後は鹿児島県知事や八幡製鉄所長官を歴任しました

 

 

本日もお読みいただき有難うございました

(⋈◍>◡<◍)。✧♡

God bless you and your loved ones.