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英検1級保持者:銀座三越のロレックスがなくなってましたが、あのあたりで2店舗閉鎖 & 1店舗開店とのこと

池田長発(6-3)経歴と評価

池田長発一行は、幕府に断りなくイギリス及びオランダ行きをキャンセルし、フランスから日本に戻りました

 

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・フランスの勧め

・日本出立前の一行に対するイギリス側関係者の冷淡な態度

・イギリスの国力低下やsplendid isolationの限界

・どうせ鎖港交渉は無理

など、様々な事情を総合的に判断したものと思われます

 

もっとも、幕府としては、当時の国内情勢が熾烈を極めていたため、池田長発には粘り強く交渉するポーズをとり続けてもらいたかった

 

そのため、長発一行はようやく横浜には上陸できたものの、江戸城への登城には幕府から難色が示されました

 

しかし、ナポレオン三世から将軍宛てに軍艦やら立派な馬26頭やらが贈られたため、江戸幕府もそれを受け取らないわけにはいかない

結局、登城は許されました

 

(益田孝によると、池田長発はナポレオン三世にかなり気に入られていた様子です

こちら、ナポレオン三世から池田長発個人に贈られた馬に乗っているナポレオン三世の像(世界ふしぎ発見2017年11月11日放送の画面を撮影し拝借)

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益田孝の自伝によれば、条約調印直後、長発はパリのホテルで切腹騒動を起こすなど、幕府からよほど重い罰を受けるのではないかと思い悩んでいたそうです

蓋を開けてみれば、形ばかりの処分でした

・・・ 

これは私の推測ですが、長発一行が帰路のマルセイユでノンビリしている(させられている)間に、フランスは先回りして、在日フランス大使に対し、次のようなナポレオン三世の意向を伝えた・・・のかな

ー 在日フランス大使は

 「条約を破棄するように」

 と、幕府に対して入れ知恵しなさい

ー 長発一行とのパリ条約締結により、井土ヶ谷事件の賠償問題が決着しました

  これにより、フランス国内の対日強硬派をいったん抑えることができました

  その点で、ナポレオン三世は、長発一行のフランス訪問に感謝しています

- フランス国内の対日強硬派が強硬になったゆえんは、長州藩のキャンシャン号砲撃事件にあります(井土ヶ谷事件も、長州藩が真犯人の疑い濃厚)

  そして、フランスは、キャンシャン号砲撃事件に対する報復として、四国連合による下関戦争の準備であり、しかも目下これで手いっぱいです

  そのため、フランスは、幕府にパリ条約を破棄されても、幕府に対して報復を加える余裕がありません

  その点でも、安心して条約を破棄するように、と、フランス大使は幕府をよく言い含めてください

- パリ条約は、フランス国内で対日政策を段取りよく整え、下関戦争準備のための時間稼ぎを可能とし、すでに十分役立ってくれました

  しかし、幕府に条約内容を逐一順守されると、フランスの4国連合脱退などの別の問題が生じ、逆に話がややこしくなって困ります

  必ず、幕府には、条約を破棄してもらってください

ー ナポレオン三世は、幕府に対し、いくらでも貸付けをする意向です

  その他にも、幕府のフランスに対する要望があれば、聞いておいてね

  幕府と長州は仲が悪いし、フランスは野蛮な長州が大嫌いだから、フランスは幕府をサポートします

ー 長発を無碍にしてはいけません

  ナポレオン三世と同じ武門の出ということで二人は大いに盛り上がり、長発はパリ滞在中には西洋剣術を直ちに習得、日本の馬よりも上背のあるパリの馬も即座に優雅に乗りこなし、さらには積極的に陸海二軍編成を学ぶ博識さと勉強熱心さなどに、ナポレオン三世が惚れこまれてしまったからです

ー ついでに言うと、ウェジェニー・ド・モンテジョ皇后はじめとするパリの婦人たちの間の人気も高く、人気女優サラ・ベルナールに至っては舞台で共演したいとまで熱望し、熱心なファンたちがグランホテルの前で出待ちをし、移動中の長発が駕籠から出る一瞬の姿を瞳にとらえようとご婦人方が集まり、長発が現れるとフランツ・リストのコンサート張りにご婦人方が悲鳴を上げて失神する始末です

  今では名刺代わりの長発の写真にはプレミアムがついて市中で販売されており、長発が切腹でもしたら熱狂的ファンの後追い自殺を誘発しかねず、とにかくパリジェンヌたちがマジヤバいから長発のことは丁重に扱うように、彼女らは下手な対日強硬派よりも手ごわいのだと、幕府にくれぐれもよろしく伝えてほしい

 

モデルさんか俳優さんのようなポーズの数々

 

mizunonamboku.hatenablog.com

 

 

 

 

・・・というような話があったとすれば、老中らは困りに困ったでしょう

なにせ、日本国内では、尊王攘夷派による長発非難はおさまらない

 

これは史実なのですが、弱った老中らは、長発に対し

「香港か上海あたりに身を隠せ」

と言いました

しかし、長発が首を縦に振らない

 老中らは、窮余の策として

「長発らは長旅の疲れゆえにパリで頭がおかしくなった」

ということにしました

そして、江戸幕府はパリ条約を1864年8月25日に破棄、尊王攘夷派は、ひとまず矛を収めました

 

このパリ条約破棄にもかかわらず、幕府とフランスの間では戦争が起こることはありませんでした

それどころか両国関係は極めて良好となり、こののち幕府の海軍増強にフランスは協力するばかりか、ナポレオン三世は幕府に対して多額の貸し付けも行っています

また、池田長発は軍艦奉行並に任じられています(彼が頭のおかしい人ならば、このような重要なポジションを命じられるはずもない)

 

【代表者3人の処分内容】

益田孝の言う通り、全てが形ばかりの処分です

また短期間のうちに処分は解かれ、3人とも栄転しました

 

池田長発

蟄居を命じられ石高は半減(1200石→600石)ですが、御家取り潰しにもならず、家督を養子に譲って出家

蟄居は解かれ(時期は文献により異なりますが、わずか1~2年)、1867年には軍艦奉行並に任命されました

 

副使の河津

蟄居からわずか5か月で役職を命じられ、鳥羽伏見の戦い直前には長崎奉行ともなりました

 

目付け役の河田

蟄居を命じられたものの数か月で許され、陸軍奉行(長発ら3人で提案した陸海2編成等による幕府軍近代化)や開成所頭取となりました