(1863年)
7月13日 フランス通報艦キンシャン号を、長州藩が、下関で打ち払う(フランス側4名死亡)
7月16日 オランダ東洋艦隊メデューサ号を、長州藩が、下関で打ち払う(オランダ側4名死亡)
7月20日 アメリカ船籍ワイオミング号を、長州藩が下関で打ち払うが、逆に庚申丸が沈められるという返り討ちに会い、ワイオミング号は横浜に帰港する
7月23日 報復のため、フランス東洋艦隊が横浜を出港、下関に向かう
7月24日 フランス東洋艦隊が、下関で、長州藩の前田砲台等を撃破する
8月21日 幕府が、長州藩に対し、外国船うち払いをやめるよう通告
8月29日 幕府が軍艦朝陽丸で長州藩に向かって長州藩を詮議するが、その数日後、長州藩が幕府の軍艦朝陽丸を強奪し、さらに幕府側の要人を殺害
(1864年)
2月 長州藩に対する報復のため、イギリス・オランダ・アメリカ・フランスが四国連合を結成
7月13日 これを知った長州藩士でイギリス留学中の伊藤俊輔及び井上聞多は、急ぎ帰国、横浜に到着、イギリスのオールコックと面会し藩主を説得すると約束する
7月22日 四国連合は、長州藩に対し、下関海上封鎖が20日以内に解かれなければ砲撃すると通告
8月17~18日 四国連合艦隊が横浜を出港
8月19日、長発一行が急ぎ帰国、老中らは長発に対して蟄居・隠居を命じ600石を没収、ただし、同日に3歳の長春を養子、長春への家督相続が認められる
8月25日 池田遣欧使節団の締結したパリ条約の批准を、幕府が拒否して条約破棄、これによりフランスの四国連合砲撃参加が確定
9月4日 長州藩は海上封鎖を解くことをようやく決めるが、既に四国連合は臨戦態勢
9月5日 四国連合が下関の砲台を攻撃・占領して破壊し長州藩は惨敗(第二次下関戦争)
9月8日 長州藩と四国連合で和議交渉を開始
長州藩は次の二点を了承
・下関海峡の通航の自由の確保
・下関砲台の大砲の各国による接収
9月10日 四国連合と長州藩の間で再交渉
9月14日 四国連合と長州藩の間で講和が成立
・下関海峡の通航の自由の確保
・石炭食料薪水等の給付
・風波の難を避ける場合の下関上陸許可
・下関海峡の砲台建築・大砲設置の禁止
・賠償金は江戸にて四国の公使が決定
後の明治政府の主流派である長州藩が、幕末にやらかしていたのは、こういう乱暴狼藉の数々
これをまた情のある江戸幕府がしりぬぐいをしてあげる、この繰り返しです
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D'accord, je vois. C'est la vie.
明治維新になると、幕府の負債も薩長出身者を中心とする明治政府に引き継がれました
長州の自業自得というものでしょう