あちこちの文献に、殿の言動の記載が少しずつあったりします
もっとも、当時10代の益田孝とひぃずちゃん、髪結の青木を除くと、恐れ多いのか、殿の言動を引いたものは見受けられない
日本に帰国したのちの建白書も、池田長発の他、河津及び河田との3人の合作であり、もちろん池田長発の考えは反映されているのでしょうが、直筆部分は不明
この条約の署名と花押は、間違いなく本物
(「世界ふしぎ発見」からの引用)
たぶん、このお墓の文字も生前の池田長発のものでは
(ツイッター投稿からの引用)
超優秀な人にありがちな、スピード重視、正確性重視、読めるということが大事なのだから楷書が一番・・・そんな合理主義的な香りです
なお、一人の人間の筆跡が変わることはよくあり、例えば本居宣長の筆跡もかなり変遷しています
いずれにせよ、主に周りの人たちの反応を見て、池田長発のお人柄を推測することになります
・・・
(パリでの出来事)
パリと言えば物議をかもしがちな風刺画というか品のないいたずらがきでも悪名高いところです
この長発一行の訪問中も「陣笠?を被った東洋人が裸でたちションをしている」というグラフィッティが出回りました
これを、一行の身の回りの世話をしていた現地の下男が、面白がって随行員らに見せてしまった
当然、この無礼すぎる下男は解雇となったのですが、懲戒解雇的では再就職が難しい(当時の上流階級向けのハウスキーパーが就職活動をするときには、前雇い主からの紹介状が必要)
そのため、この下男は、図々しくも一向に泣きついた
これに対しては、同行していた名倉予何人という儒者が
「絶対に許せん」
と、特に激怒していた
そこで、長発がこの儒者を自室に呼び、one-on-oneで話をし、二人が何を話したかは知らないが、しばらくして長発の部屋から出てきた儒者は上機嫌だったそうです
長発は昌平黌では騎馬や剣道のようなスポーツのみならず朱子学でもトップの秀才だったそうですから、うまく説き伏せたのでしょう
遣外使節日記纂輯. 第3(岩松太郎)参考
遣外使節日記纂輯. 第3 - 国立国会図書館デジタルコレクション
デジタルだと今一つ読みにくいので、私は古書を入手しました
(たぶんこんなんだったんじゃないか劇場)
長発は、名刺代わりの写真撮影を終え、グランホテルで一番良い部屋にて和装を解きシャワーを浴びてメイクを落とした
そして、パリで知り合った同世代のアルフォンス・ドーデから贈られた部屋着に着替え、リラックスしていた
フランスへの愛国心に満ちた「最後の授業」、三幕の戯曲「アルルの女」などで有名な作家、妻も同じく文学者であるジュリア・アラール、アルフォンスは大変な愛妻家で、ある時は妻の作品を侮辱した批評家に対して決闘を申込み重傷を負わせました💞
ところが、長発の部屋からドアを隔てた廊下側が、何やら騒がしい
何事か、と思い、長発がドアを開ける
そこでは儒者である名倉予何人がぷんぷん怒っている
「どうしましたか、先生」
長発が声をかけた
殿の声に驚いた名倉予何人が振り向くと、禁止のはずの洋装の長発がいる
日本であれば雲の上の存在である殿から声をかけられ、意表をつかれた名倉予何人は、言葉を失い、立ち尽くした
「・・・先生、もしよろしければ、こちらの部屋をご覧になりますか」
長発は、自分の部屋に予何人を呼んだ
しかも、殿が自ら紅茶を入れ、予何人に勧めた
予何人は、おっかなびっくり、紅茶に口をつけた
長発は、予何人から事情を一通り聞いた
そして、静かに席を立って書斎に向かい、書籍類を引っ掻き回し、パリで収集した新聞に掲載されたえげつないグラフィッティの数々を取り出し、リビングに戻って儒者に見せた - 山ほどのグラフィッティの中では、日本人だけではない、中国人も、アフリカ人も、インド人も、ジプシーも、アラブ人も、イギリス人も、オーヴェルニュ人も、オランダ人も、とにかくありとあらゆるパリジャン・パリジェンヌ以外が出鱈目にディスられている
長発と儒者は、顔を見合わせて苦笑した
長発「パリでは、どうやら何でも笑いの種にするようですね」
儒者「描かれた方は、堪りませんね」
長発「しかし、我々がどうかと言うと・・・」
そして、日本から持ってきた浮世絵や瓦版を、おもむろに取り出して儒者に渡した
(色々ありますが、教育的な配慮からこの辺まで・・・)
儒者「・・・これは、我々も、異国人に対して、たいがいですな( ´艸`)」
長発「これを見たからと言って、真に受ける人は殆どいませんよ - 庶民に許された数少ない娯楽の一つですから、大目に見ましょう」
儒者「なるほど・・・恐れながら、お前様、あの者の処分は」
長発「このまま雇い続ける訳にも参りませんので、通詞の西吉十郎と山内六三郎に紹介状を書かせ、あの者に持たせ、穏便に解雇しましょう
ところで、安心したらおなかが空きませんか
ひぃずがおいしいお店をよく知ってるみたいですよ
あいつ、バレてないと思っているようですが、老中たちが定めた取り決めを確実に無視して、一人であちこちをうろうろしています・・・
いまは笑い話で済んでいますが、危なっかしい
そこで、先生、ひぃずに付き添ってはいただけないでしょうか
こちらは当座の費用に・・・」
と、それなりにまとまったお金を渡す・・・
名倉予何人は、上機嫌で長発に対して丁重に礼を述べた
そして、足取りも軽く長発の部屋を出た
何が起こるか、と、部屋の外でワクワクと待ち構えていた岩松太郎たち
そこへ、名倉予何人が、先ほどの件はケロッと忘れた体で、ニコニコしながらやってきた
太郎たちは、高齢の儒者がスキップしながら自分の部屋に戻るのを、をあぜんとしながら見送った・・・
・・・
ちなみに、こちらは長発の功績もあって幕府&フランスの関係が良好となり、1867年に幕府の海軍等強化のために来日したフランス軍事顧問団のジュール・ブリュネ(Jules Brunet)(映画「ラスト・サムライ」でトム・クルーズが演じた人物のモデル)が残した日本のスケッチ
美しいスケッチです
当時のフランス人全員が人種差別主義者で、日本人を見下してからかっていた、というわけではないのです
・・・
ちなみに、かなりニキビの酷い状態の長発のお写真も発見したので、旅や仕事のストレスはかなりあったのだろうなぁと
その状態から、十分な栄養と静養をとり、ガッツリとコンシーラーなどのメイク法を学んで?リカバリーを果たし、美しい写真の数々を残し、当時の人たちはもちろんのこと後の世の女性達を魅了するまでに至ったからには、長発はかなりの努力家のお洒落さんだったのでしょうね
もう少し言うと、もののあはれの日本では、ずっと男性もおしゃれだったのですが(江戸時代は、歯を磨き過ぎてエナメル質を傷つけて冷たいものが苦手になる江戸っ子が続出したほど)、どうやら幕末~明治維新でガサツな薩長の下級士族(失礼m(_ _)m)が日本人男性を引きずりおろしたっぽいです
以前、英会話スクールに通っていたとき、イギリス人の先生方(男性)が皆様爪を磨き香水をつけておられたので
(ジェントルマンは違う・・・)
と思ったものです
が、明治よりも前の歴史を学べば学ぶほど、元来、日本人男性は素敵だったので、やっぱり薩長が悪い
(あ、いえ、今も素敵な日本人男性は多いですよ)