文久3年12月28日(1864年2月5日)、江戸を出発した池田長発以下34名は、上海・香港・セイロンなどを経由して、一路ヨーロッパに向かいます
このうち何人かが日記を残しています
私が史実として一番参考にしているのは、岩松太郎の「航海日記」(遣外使節日記纂輯. 第三に収録)
一番好きなのは理髪師である青木梅蔵のものです
残念ながら、青木梅蔵の日記の原本は第二次世界大戦で焼けてしまい、今は彼の日記を引いた別の本が残るのみです
さらに、「自助益田孝翁伝」は、記述は短いものの遠慮がないうえに固有名詞や時系列が正確なので、大変に参考になります
これらをまとめると、旅程は次のような様子でした
【食事】
文久3年12月28日から翌4年1月7日まで(1864年2月5日から同2月14日まで)、江戸から上海までの航路は、フランスの軍艦であり、貨物船や客船ではありませんでした
そのため、狭いし不潔だし船酔いは酷いし水を被って衣類は濡れるしで、とても乗り心地が悪かった
また、食事も口にも合わない(おフランスだけど軍艦なので)
岩松以上のレベルであれば一応の肉の塊や酒は出るが獣臭いし不衛生なので突き返し、パンのみを受け取るが、おなかは満たされない
益田孝以下になると、牛の頭を大鍋で煮たものが出て、まるで餓鬼・・・
そんなとき、町人の方が立ち回りがうまかった
青木梅蔵(理髪師)は、こっそりおもちなどを荷物に忍ばせており、これを食べてしのいでおりました
「モチも食ったし、甲板でお天道様でも拝むかなぁ、あぁいい風だ」
出港から数日後のある日、そんな青木の元に、池田がたった一人で突然現れました
お殿様の顔色は青ざめ、ひょろひょろと歩き、まるで死人のようだったそうです
その池田曰く
「せめて、お粥でも・・・と思うのだけど、家来たちまで、まるで死人のようで役に立たない・・・そち、何とかしてくれんか」
青木は大変な名誉と思い、お殿様のために囲い米をかゆにすることにします
船上には真水がありませんので、青木は決死の覚悟で体に縄を括り付けて海水をくみ上げ、かゆを炊きました
火鉢などの持ち込みは固く禁止されていたはずなので、キッチンを借りたのでしょう
海水で炊いたのですから、磯臭いうえにしょっぱかったはずですが、皆でバクバク食べて飢えをしのいだ、という事です
まるでお殿様(池田長発)までが乞食の様にがっついていた、と、青木は書き残しています