苦労のかいあり、一行はエジプトに到着、1864年2月23日にエジプト国王と会見
同月28日には、この有名な写真を撮りました
よじ登って収まっているのが池田長発
うすぼんやりしている人を含めて25人程度
ということは、9人欠けています
これらの欠席者は体調を崩し、ホテルで休まれていました
体調の悪さというのは乗り物酔いレベルの話ではなく、非常に深刻な感染症にり患した人もいました
殊に、横山信道(恵一)は、エジプトで黄熱病と思われる病にり患し、往路のマルセイユで療養中に亡くなっています
お墓は武士の陣笠(兜の一種)のような形になっています
横山の病状は、マルセイユから約650キロ先にいるパリにいる池田長発に対して電信にて連日報告され、訃報も伝えられました
益田孝によれば、実はその前から、池田一行の到着前にフランス国内では宿泊や食事の手配がピッタリ行われているなど、一行が不思議に思う現象が繰り返されていました
じきに、これは電信のおかげであったことが判明しました
ただ、聡明で観察力抜群のひぃずちゃんは、インド(当時、イギリスの植民地)のあたりで既に電信の機器を直接に見て、その存在に気づいています
益田孝が仮にフランスにつくまで電信に気づかなかったとすれば、ひぃずちゃんとはあんまりお話ししなかったのかしら・・・
このような西洋諸国の発達した通信技術も、池田長発が開国の必要性を痛感する一事情となりました
・・・
一行の旅も中盤になると外国暮らしにも慣れ、特にマルセイユの食事は気に入った様子
舌の肥えた一行は、帰路のイギリス船で
「食事がまずい、フランス飯の方がうまい」
と、大いに怒ったりしていたそうです(岩松太郎「航海日誌」)