1867年の秋から1868年の早春にかけて、長発は江戸の屋敷を引き払いました
そして、長春(養子)その他の家のものを連れ、岡山に移り住みました
以降の長発の暮らしは
「当初の予定では岡山滞在は一時的なもので、目的地はあくまでも井原領だったが、池田長発を慕う岡山藩主らが引き止めたので岡山にとどまり、花鳥風月の暮らしを楽しんだ」
とするのが通説のようです
実際に、岡山県岡山市には日本三大名園の一つである後楽園があり、良いところです
勉学も盛んで、県立の中高一貫校及び中等教育学校は他の都道府県との比較で確保率(生徒数比率)が高く、私立・公立ともに大学進学実績は素晴らしい
2021年 岡山県立岡山大安寺中等教育学校 東大・京大・難関大学 合格者数 | インターエデュ (inter-edu.com)
岡山大学・大学院も、数々の素晴らしい研究成果を上げています
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専門的な研究成果が英文で無尽蔵に無償で読める ー ワクワクしますね
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もっとも、僭越ながら、私は
「朝廷・明治政府が、岡山藩を通じて、池田長発を監視下に置いた」
と考えています
(当時の国内情勢)
明治10年の西南戦争まで、まだ明治政府が日本国内を統治しきっているとはいえず、幕府シンパの動きも荒いものがあり、逆に朝廷派が幕府派を血祭りにあげるようなこともありました
福沢諭吉の福翁自伝によっても、このころまでは日本の治安が極めて悪く、福沢も命を狙われたことが度々あったそうです
今、大河ドラマで話題の渋沢栄一もゴリゴリの尊王攘夷派で、幕末には開国派の暗殺を企てたほどでした(実行には至らず)
(備中松山藩)
岡山藩のお隣、備中松山藩(初代藩主池田長幸)では、当時の7代藩主板倉勝静が幕府の要職にあり、鳥羽伏見の戦い~その直後も慶喜とともに大阪にいました
そのため、鳥羽・伏見の戦い(慶応4年1月3日~6日、1868年1月27日~30日)が集結した1週間後には、松山藩追討令が朝廷から出され、岡山藩は朝廷から錦の御旗を渡されました
岡山藩は、この松山藩追追討令に応じて、藩主不在の松山城などを接収しました
また、松山藩では勝静を隠居・親戚の板倉勝弼を養子として家督相続させ、朝廷に鞍替えしました - 松山藩の留守を守る家臣によるクーデターですが、戦闘を回避し領民の被害を回避できたので良し
松山藩から追放されたも同然の勝静は、1869年(明治2年)、禁固2年の実刑判決を受けました
(井原領に残された文書から見る1868年の痕跡)
慶應4年正月(日付不明)、井原領知御預けにつき証書
慶応4年5月18日付 池田長春誓書(池田可軒すなわち池田長発が名代として作成・徳川慶喜を非難し、朝廷への忠誠を天地神明に誓う内容)
長発に対する朝廷の厳しい目と、領民の安全を守ろうとする長発の知性と忍耐が伺われます