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池田長発(6-1)経歴と評価

池田長発(いけだながおき)

(1837 - 1879)

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歴女たちによって、まずは池田長発のヴィジュアルが驚きをもって広く知られるようになり、さらにその優秀さと優れた仕事ぶりが再評価されるようになりました

 

 【池田長発 略歴】

天保8年7月23日(1837年8月23日)、7000石の高禄であった幕府直参旗本池田加賀守長休(ながのり)の4男として、江戸・西窪で生まれる(母親は室ではなく侍妾、名は不詳)

 

・かなりできのよい少年だったようで、岡山大学所蔵池田家系譜の「故池田筑後守履歴取調書」によれば、次のように紹介されています

(片仮名を平仮名にするなど、読みやすくさせていただきました)

筑後守、幼にして穎悟(えいご・悟りが早く、抜きんでて賢いこと)、長じて林家(養母の実家)及び昌平黌(昌平坂学問所)に出入りし、才学・文章夙(つと)に同輩に超越す」

 

 ・嘉永5年11月25日(1853年、つまりペリー来航の年)(16歳)、長溥(ながひろ)の養子願い、即日養家に移る

 なお、長溥は文学に長けた人と伝えられています

 

・同年12月25日、初めて家慶公に拝謁

 

嘉永6年11月18日(1854年、つまり日米和親条約が締結された年)(17歳)、養父長溥が死去

 

・同年12月26日(17歳)、家督を継ぎ、井原10代領主となる

 当時は小普請(旗本・御家人の無役の者)

  

1862年文久2年)(24歳)、目付

 

1863年文久3年)(25歳)、京都町奉行・火付盗賊改

・同年9月(26歳)、外国奉行

 

・同年11月(26歳)、第二遣欧使節団の団長に任命される

 

彼が遣欧使節団の団長という大役を任されたのは、優秀であることに加えて鎖国派だったから、という説が有力です

 

しかし、洋書をも読み込んでいた神童が、単純な攘夷論者であったとは考えにくい

 

当時は組織の論理に最適化することが出世に必要不可欠であったうえ、攘夷派による自分や家族への危害を避けるために当時の要人の多くが表向きは攘夷の立場をとっており、長発もその一人であったのでしょう

 

【当時の幕府の事情】

かなり複雑です

・老中たちは、1860年桜田門外の変井伊直弼が攘夷派から殺害されたことで大変おびえていました

・その後も全国で過激な攘夷派の乱暴狼藉は酷くなる

・追い打ちをかけるような

「とにかく外国人を追い払ってくれ、特に外国人がうようよしている横浜を鎖港してくれ」

という、孝明天皇・朝廷側からの無茶ぶり

・井土ヶ谷事件を契機に、フランスが報復として横浜・江戸を焦土にする危険性も高まっていました

 

井土ヶ谷事件というのは、1863年10月14日(文久3年9月2日)、現在の神奈川県横浜市で、フランス人が何者かによって襲撃され死亡したという事件

犯人は捕まらずじまいでした

 

幕府はフランス公使・ベルクールと相談し、ベルクールの勧めにより、事件の解決と謝罪の為に、遣欧使節団を組むこととなりました(ミッション1)

 

ただし、これだけをミッションとすれば、尊王攘夷派と朝廷がさらに怒り狂い、国内はガタガタとなる

そこで、横浜再鎖港もミッションに加えることとなりました(ミッション2)

 

では誰を使節の団長にするか

ある候補者は病気を理由に断り、その後に池田長発にお鉢が回ってきました

関係者の間では、これらが滅茶苦茶なミッションであることは、よく知られていたのでしょう  

 

34人の遣欧使節団には留学気分の人が多く参加しており、実働は長発含めて4~5名程度

極端な例では、開国派であることがバレたため、攘夷派に狙われ、その身を案じた親族が、当人を海外に逃がすも同然の体で使節団に押し込んだ、という事情のある人もいました

 

事前準備期間が十分に取れたうえに航路や宿泊先などが全てお任せだった第一次遣欧使節団と異なり、今回は使節自ら宿泊や移動の段取りをする必要があり(パリでの宿泊はフランス側が用意されたが、これはどこの国でも当時の外交儀礼)(戦艦ル・モンド号で日本から上海まで移動するも、これも最悪の乗り心地)、まだまだ海外に不慣れな当時のことですから、大変だったそうです

 

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