10 Percent Happier

英検1級保持者:今週「いくらなんでも安すぎでは」と思って買ったアステラスが増配♪( ◜௰◝و(و "

池田長発(4)優しくて知的なお父様役、河津伊豆守祐邦

遣欧使節団の副使であった河津伊豆守祐邦

いかにも真面目そうな古き良き初老のサムライ

 

f:id:mizunonamboku:20201027183148j:plain

 

(略歴)

1821年生まれ

嘉永3年(1850年)9月 家督を継ぐ

安政元年(1854年)7月28日 箱館奉行支配調役(150俵高)となって蝦夷地の開拓や五稜郭の築造に携わる

同年12月27日 箱館奉行支配組頭

1863年文久3年9月28日) 外国奉行に就任

同年12月、池田長発を正使とする遣欧使節団(横浜鎖港談判使節団)の副使として出国

開国の必要性を感じて横浜の鎖港を断念し、パリ約定を調印して帰国

池田長発と共に幕府に建議したが、元治元年(1864年)7月23日に免職及び逼塞、しかし同年12月に逼塞を解かれ、その後は関東郡代等を歴任

慶應3年(1867年)8月15日 第124代目の長崎奉行に就任

同年10月11日(11月6日) 長崎に着任

慶應4年(1868年)1月15日 長崎を離れ江戸に帰還

同月23日 外国事務副総裁に就任

同年2月6日 外国事務総裁に就任

明治6年1873年)没 

 

【親族】

河津の女婿、河津祐之は、大津事件の際の司法省刑事局長

 

大津事件

 1891年(明治24年)5月11日、日本を訪問中のロシア帝国皇太子・ニコライ(後の皇帝ニコライ2世)が、滋賀県滋賀郡大津町(現大津市)で警備にあたっていた警察官・津田三蔵に突然斬りつけられ負傷した暗殺未遂事事件

 ロシア帝国の艦隊が神戸港に停泊中であり、日露戦争がこの時に勃発しかねないという状況の中で、司法権の独立を維持した重要判例

 罪刑法定主義の観点から、旧刑法116条(法定刑に死刑がある)は日本の皇族に対してのみ適用され、外国の皇族(王族)は構成要件に該当せず、最高刑は謀殺未遂罪(旧刑法292条)による無期徒刑(無期懲役) - というのが、当時の大審院院長の児島惟謙の見解でした

 そして、1891年5月27日、事件から16日後というスピード判断で、津田に無期徒刑の判決が下されました

(1908年10月施行の改正刑法により、謀殺(殺人)未遂は裁量的減刑に改正され死刑も法定刑に含まれることとなったが、大津事件の結果には影響を及ぼさなかった)

✧河津祐之は、幕末には幕府の外国方翻訳掛などを務め、明治維新以降は学制の策定に当たるなど主に教育分野での官僚で、その在官中はフランス留学するなどのインテリで、民法制定の際のボアソナード草案にも参加しました - このときに日本の歴史ではじめて婚姻による改姓が導入され、以降100年余り続いており、今や世界中で婚姻による改姓強制をしているのは日本だけ

 基本的に河津祐之らの功績はたたえますが、何でもかんでも欧米のマネをするのではなく、日本が世界最先端を行っている部分はかえるべきじゃ無かったですね

 河津祐之は、司法省刑事局長となる前には、嚶鳴社に入って民権思想を広める活動を行ったり、自由党に参加して「日本立憲政党新聞」(現毎日新聞)の主幹となるなど、自由主義思想の持ち主で、こういう人が官僚組織のトップになれたのだから、明治の時代の日本は偉かった

 その後の日本人が劣化し、日本古来の風土を大事にできないうえに世界的変化を受け入れにくくなっていることからしても、明治のころにもっとガッチリ日本の行く末を固めてもよかった

 

河津の孫である暹(すすむ)は、東京帝国大学経済学部教授 

 

  

【河津伊豆守祐邦の穏やかな性格と勇気を示すエピソード・浦上キリシタン問題】

1867年(慶応3年)、長崎の浦上村の隠れキリシタンが、自らのキリスト教信仰を表明し、奉行所に捕縛されるという事件が発生しました(浦上4番崩れ)

 

河津伊豆守祐邦は、前任の長崎奉行である能勢頼文や徳永昌新から、この問題を引き継ぎました

 

河津は、82人の信徒達の中でただ1人だけ転衆を拒んだ高木仙右衛門を、密かに奉行所に呼び出しました

 

河津は高木を穏やかに諭しました

「私はあなたを殺すために呼んだのではない

 キリスト教は良い教えであるが、今は信仰の許しが無い

 御許しが出るまで心の中でのみ信仰するに留め、表立った信仰はしないように

 キリストの教えの良いことは、フランスに行った私はよく知っている

 しかし、今の情勢下では信仰を許すわけにはいかないので、今日は家に帰りよくよく考えて返事をするように」

と述べ、高木に金3分を紙に包んで与えました

(『仙右衛門覚書』より)

 

この問題を解決する前に、河津は江戸に帰還したため、その後の処理は明治政府にゆだねられました

 

その明治政府は、1868年4月7日の「五榜の掲示」の第三条でキリスト教を禁じました

そして、高木らキリスト教信者は牢を転々とさせられ拷問を受け、少なからぬ人たちが亡くなりました

今の中国のウィグル自治区イスラム教)やチベット自治区(仏教)のようなものです

 

明治政府のキリスト教弾圧に対しては、当然ながら欧米諸国から強い非難が寄せられました

そして、約5年後の1873年明治6年)2月24日、ようやく明治政府はキリスト教禁制の高札を撤去し、高木らも釈放されました

 

キリスト教植民地主義が云々」

と言われることもあります

が、日本のキリスト教徒に対する残虐さも半端なかった

 

その中でも、河津伊豆守祐邦のように、知性と勇気と実行力と正しい判断を併せ持った奉行もいたのです

後の杉原千畝さんなどもこの類の勇者ですが、官僚組織の寛容さの違いが、その後の人生の明暗を分けました

 

 

【河津の長崎退却までのタイムライン】

1868年1月27日~30日(慶応4年1月3日~6日) 鳥羽伏見の戦いで、幕府が薩長に敗退する

(以下、西暦で統一します) 

1868年1月31日 徳川慶喜は、旧幕府軍大坂城での徹底抗戦を説きつつも、闇夜に紛れて老中板倉勝静・老中酒井忠惇・会津藩松平容保桑名藩松平定敬らとともに大阪城を脱出し、大坂湾に停泊中の幕府軍艦開陽丸で江戸に退却

2月3日ころ 長崎に幕府敗北の報が届く

同月7日夜 長崎奉行であった河津伊豆守祐邦は、イギリス船に乗り込んで江戸へ退却 ー これにより、長崎における幕府軍・討幕軍(薩長等)による大規模な戦闘行為は回避された

 

【江戸への退避:周到な計画と落ち着いた実行】

1868年2月7日 「海に近く何かと物騒な立地を避けるため、奉行所を移転する」

という名目で、西役所(現長崎県庁)から立山役所(現長崎歴史文化博物館)への奉行所の引っ越し作業が行われ、立山役所からは宴のための仕出し260人分の注文がされた

同日夕刻過ぎ 仕出しが全てキャンセルされる

8日早朝、河津はイギリス船で江戸に帰還

 

【河津と長崎奉行所にあった多額の公金の行方】

第一節

1868年1月13日、河津と佐々木高行土佐藩・竜馬の死後に海援隊を率いていた)らにより、河津の長崎脱出計画が練られた

奉行所の金は幕府の資金なので、幕府に戻す」

という、ごく当たり前の発想から、河津は奉行所の保管金を江戸に持ち帰ろうとしました

しかし、佐々木が海援隊の腕力をバックに河津を脅したため、断念しました

(平たく言えば、幕府の金は海援隊らに強奪された)

 

第二説

河津は、奉行所の金箱4箱1万7000両余りをこっそり持ち出し、イギリス船に乗り込んだ

佐々木らが、これを止めた

結局、3500両が餞別として河津に対して佐々木らから贈られ(河津が東京神田で起こした馬車会社の起業資金となった)、残りは海援隊らが取った

 

両説あるわけですが、第一節が正しく、第二説は海援隊が飛ばしたデマでしかない

 

(理由)

・河津伊豆守の実直な性格

・幕府関係者(フランス側)が、イギリス船に乗り込むことは不可能、ただし薩長や土佐・海援隊が事前に手配していた場合に限って可能になる

・河津は馬車会社を設立していない(すでに当時高齢で、江戸帰還から5年後に没している) 

 

【結論】

河津伊豆守祐邦は、立派な方でした

才能と人柄に恵まれた祐邦の名誉回復と復職を、自分よりも優先させた池田長発も、立派な方でした

 

本日もお読みいただき有難うございました

God bless you and your loved ones💞

 

ごもっとも・・・

なぜ「中国ウイルス」はダメで、「南アフリカ変異株」はOKなのか - 黒色中国BLOG (hatenablog.com)