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英検1級保持者:ヤマハの鍵盤剥がれの補修のため、一時貸出鍵盤を使っていますが、重いしガタガタだしで手首を痛め、発表会&検定試験前に練習時間を減らす羽目になり、大迷惑です

池田長発(16)長発による慶喜批判と朝廷への忠誠宣誓

幕府が推奨していた「朱子学」に優秀だった長発

 

同時に、彼は、納得すればアッサリ方向転換できるという、柔軟な気質の持ち主です

 

慶応4年(1868年)5月18日の池田長春誓書(長発が長春の名代として代書)では、徳川慶喜を鋭くディスり、朝廷への忠誠を誓っています

 

井原市史Ⅳ pp22「五 池田長春誓書 慶應4年(1868年)5月18日」

「朝政御一新之折柄、徳川慶喜反逆顕然ニ付、大義従速上京奉窺天意処、不図今般莫大之皇恩ヲ以、本領安堵被仰付冥加至極難有仕合奉存候今後王事尽心勤労御誓文奉体、天地神明誓、子孫違背無之、謹奉親親書如件

 慶應4年戌辰5月18日

 池田福次郎名代 池田可軒 (花押)」

 

(漢字がむずかしくて、写すのが大変でした・・・)

 

ちなみに、当時の他の藩主や領主たちの多くが、この手の誓書を朝廷に出しました

鳥羽伏見の戦い慶喜逃亡)から5か月ほど経過、慶喜の人望は失われ、幕府側の負けは明らかであり、しかも朝廷は慶喜の処遇を穏便に済ます意向で、藩主・領主らにとって残された問題は領地の安堵と領民の安全確保だったためです

 

自叙益田孝翁伝 pp67~68 

「昨年(大正13年語る)、藤波さんの関係しておられる明治天皇御事績編纂局でいろいろの資料を拝見したが、その中に、明治天皇が討幕軍総督に賜った一つの宸翰がある。そのお写真を拝観したが、その宸翰には徳川の旧勲を没すべからずと書かれてある。この宸翰があるからには、すでに廟議は決していたはずで、あの場合西郷が京都まで行く必要はないわけである。

 それはとにかくもとして、私はこの宸翰の写真を拝観して、さすがに明治天皇は晴明であらせられたと深く感激した。」

 

・・・

更に深読みすると、江戸にいるはずの長発は、鳥羽伏見の戦いのころ、京都あたりに家族と滞在しています

これでは、長発自身の幕府側への関与が疑われても仕方がない

そのため、長発は、殊更に朝廷に対する忠心を示す必要があったのでしょう