池田長発は、井原知行所旗本池田筑後守陣屋跡を「心学館」という私塾設立に使うつもりで、明治2年あたりから着々と準備を進めていました
ところが、その4年後の明治6年(1873年)3月、心学館の予定地であった井原知行所旗本池田筑後守陣屋跡は、長発を名代とする長春からの寄贈により、尋常元之小学となりました
(井原小学校)
令和2年度学校紹介 - 井原市教育委員会ホームページ (city.ibara.okayama.jp)
(2021年3月現在情報)
Taro-R2学校要覧1~9 (city.ibara.okayama.jp)
このように、長発が心学館の準備を中断し、尋常小学校に寄付したことは、一般には急展開と考えられています
しかし、心学館掲牌三則を読むと、長発は心学館を領民向けの読み書きそろばんを中心とした学校にするつもりであったことが分かりますし、その他の事情から見ても自然な流れであったことが伺われます
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ところで、その1年前、明治5年(1872年)、明治政府は、フランスの小学校を模範とする、性差別も門地差別も経済的差別もなく国民に等しく普通教育を広めることを目的とする尋常小学校設立などを定めた、学制を発布しました
この尋常小学校設立は地元の経費で賄われることとされたため、地方公共団体や地元住民の経済的・人的負担が重く、全国の施行状況にはばらつきがありました
明治12年ころには尋常小学校建設中止などの逆行すら見られるほどでした
当時の井原領でも、井原知行所旗本池田筑後守陣屋跡を尋常小学校として利用できれば、領民は大いに助かりました
図説 尼崎の歴史-近代編 (city.amagasaki.hyogo.jp)
四 小学校の普及と就学状況:文部科学省 (mext.go.jp)
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また、当初の学制の運用実態としては、私塾で尋常小学校を代替することもできましたが、心学館についていえばかなり微妙な状況でした
何故かというと、井原のおとなり備中国後月郡では、一橋徳川家(徳川慶喜のいわば実家)らが運営していた興譲館(朱子学中心、現在は興譲館高等学校)が既にあったためです
その近くの井原領で長発が朱子学を柱とする心学館を設立すれば、いかに領民向けの学校という体裁があったにせよ、幕府派が集結しかねない
そうすると、現実問題として、長発が朝廷(明治政府)に恭順の意を表したことを台無しにする危険性があります
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心学館と尋常小学校のゴールは領民の教育という部分で共通している、しかも尋常小学校はフランスの学校制度に倣った学制だという、さらに長発が尋常小学校用の土地建物を寄贈すれば領民の負担を回避できる
そういう事情を総合的に考慮し、柔軟な長発はさらっと方向転換して井原知行所旗本池田筑後守陣屋跡を寄贈した・・・
実に自然な流れです