10 Percent Happier

英検1級保持者:銀座三越のロレックスがなくなってましたが、あのあたりで2店舗閉鎖 & 1店舗開店とのこと

池田長発(15)岡山での池田長発の暮らし

1867年の秋から1868年の早春にかけて、長発は江戸の屋敷を引き払いました

そして、長春(養子)その他の家のものを連れ、岡山に移り住みました

 

以降の長発の暮らしは

「当初の予定では岡山滞在は一時的なもので、目的地はあくまでも井原領だったが、池田長発を慕う岡山藩主らが引き止めたので岡山にとどまり、花鳥風月の暮らしを楽しんだ」

とするのが通説のようです

 

実際に、岡山県岡山市には日本三大名園の一つである後楽園があり、良いところです

(その他、茨城県水戸市偕楽園、石川県金沢市兼六園

ホーム/後楽園 (okayama-korakuen.jp)

 

勉学も盛んで、県立の中高一貫校及び中等教育学校は他の都道府県との比較で確保率(生徒数比率)が高く、私立・公立ともに大学進学実績は素晴らしい

2021年 岡山県立岡山大安寺中等教育学校 東大・京大・難関大学 合格者数 | インターエデュ (inter-edu.com)

 

岡山大学・大学院も、数々の素晴らしい研究成果を上げています

 トップページ - 岡山大学学術成果リポジトリ (okayama-u.ac.jp)

専門的な研究成果が英文で無尽蔵に無償で読める ー ワクワクしますね

 

・・・

もっとも、僭越ながら、私は

「朝廷・明治政府が、岡山藩を通じて、池田長発を監視下に置いた」

と考えています

 

(当時の国内情勢)

明治10年西南戦争まで、まだ明治政府が日本国内を統治しきっているとはいえず、幕府シンパの動きも荒いものがあり、逆に朝廷派が幕府派を血祭りにあげるようなこともありました

 

福沢諭吉福翁自伝によっても、このころまでは日本の治安が極めて悪く、福沢も命を狙われたことが度々あったそうです

 

今、大河ドラマで話題の渋沢栄一もゴリゴリの尊王攘夷派で、幕末には開国派の暗殺を企てたほどでした(実行には至らず)

 

備中松山藩

岡山藩のお隣、備中松山藩(初代藩主池田長幸)では、当時の7代藩主板倉勝静が幕府の要職にあり、鳥羽伏見の戦い~その直後も慶喜とともに大阪にいました

 

そのため、鳥羽・伏見の戦い(慶応4年1月3日~6日、1868年1月27日~30日)が集結した1週間後には、松山藩追討令が朝廷から出され、岡山藩は朝廷から錦の御旗を渡されました

 

岡山藩は、この松山藩追追討令に応じて、藩主不在の松山城などを接収しました

 

また、松山藩では勝静を隠居・親戚の板倉勝弼を養子として家督相続させ、朝廷に鞍替えしました - 松山藩の留守を守る家臣によるクーデターですが、戦闘を回避し領民の被害を回避できたので良し

 

松山藩から追放されたも同然の勝静は、1869年(明治2年)、禁固2年の実刑判決を受けました

 

(井原領に残された文書から見る1868年の痕跡) 

慶應4年正月(日付不明)、井原領知御預けにつき証書

慶應4年1月13日付、松山藩追討人数の書状

慶應4年5月(日付不明)、池田長春本領安堵がようやく発布

慶応4年5月18日付 池田長春誓書(池田可軒すなわち池田長発が名代として作成・徳川慶喜を非難し、朝廷への忠誠を天地神明に誓う内容)

 

長発に対する朝廷の厳しい目と、領民の安全を守ろうとする長発の知性と忍耐が伺われます

池田長発(13)エジプトで黄熱病感染者が出る

苦労のかいあり、一行はエジプトに到着、1864年2月23日にエジプト国王と会見

同月28日には、この有名な写真を撮りました

 

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よじ登って収まっているのが池田長発

うすぼんやりしている人を含めて25人程度

 

ということは、9人欠けています

これらの欠席者は体調を崩し、ホテルで休まれていました 

体調の悪さというのは乗り物酔いレベルの話ではなく、非常に深刻な感染症にり患した人もいました

殊に、横山信道(恵一)は、エジプトで黄熱病と思われる病にり患し、往路のマルセイユで療養中に亡くなっています

お墓は武士の陣笠(兜の一種)のような形になっています

バックナンバー|TBSテレビ:日立 世界ふしぎ発見!

 

横山の病状は、マルセイユから約650キロ先にいるパリにいる池田長発に対して電信にて連日報告され、訃報も伝えられました

 

益田孝によれば、実はその前から、池田一行の到着前にフランス国内では宿泊や食事の手配がピッタリ行われているなど、一行が不思議に思う現象が繰り返されていました

じきに、これは電信のおかげであったことが判明しました

 

ただ、聡明で観察力抜群のひぃずちゃんは、インド(当時、イギリスの植民地)のあたりで既に電信の機器を直接に見て、その存在に気づいています

益田孝が仮にフランスにつくまで電信に気づかなかったとすれば、ひぃずちゃんとはあんまりお話ししなかったのかしら・・・

 

このような西洋諸国の発達した通信技術も、池田長発が開国の必要性を痛感する一事情となりました

 

・・・

一行の旅も中盤になると外国暮らしにも慣れ、特にマルセイユの食事は気に入った様子

舌の肥えた一行は、帰路のイギリス船で

「食事がまずい、フランス飯の方がうまい」

と、大いに怒ったりしていたそうです(岩松太郎「航海日誌」)

池田長発(12)辛い長旅、さらに続く・・・

なんだかんだで二回ほど船を乗り換えたところで、池田長発の大荷物に紛れていた日本酒樽が発掘?されました

しかも灘の銘酒

これを皆様で痛飲されました🤣

多少は旅のお疲れも和らいだことでしょう

 

【汽車とトイレ】

当時はスエズ運河が建設中で、インド洋から地中海への航路がつながっていませんでした

そのため、池田一行は陸路を選ばざるを得ず、アデン港(今のイエメン)から上陸し、汽車でカイロ(エジプト)へと向かいました

 

この長距離列車には、トイレがない

そこで、乗客・乗員のトイレ休息のための停車の機会が、しばしばありました

ところが、このトイレ休憩のことを、一行は知りませんでした

誰が悪いって、一行に同行したオランダ生まれのフランス人・ブレッキマンが相当根性悪で、そういう大事なことを一行に教えなかったのです

 

一行は、トイレを我慢し、我慢に我慢を重ね、そしてついに・・・

「車中にて、大便を山盛りに致せし人あり」by梅蔵

・・・(;゚Д゚)・・・

 

岩松太郎も益田孝も、さすがにこれは「武士の情け」で、全く触れていません

池田長発(11)辛い長旅は続くのよ・・・(食後しばらくたってからお読みください)

 【臭い・・・】

往路で上海で上陸し、一行はアストロ・ハウスというホテルに宿泊

その翌日、一行は再び乗船

船の食堂で食事中、副使の河津伊豆守が

「この食堂は臭い」

と、しきりに言う

mizunonamboku.hatenablog.com

 

もっとも、ひぃずちゃんの「航海日誌」によれば、今度は前回の軍艦とは打って変わって、フランスの郵船

乗り心地もよく、食事もよく、風呂の水も使い放題、まるで天と地の違いでした

したがって、今度の船では食堂は清潔で、臭いはずがない

 

それでも、河津は、フォークを口にもっていくと、あまりにも臭くて気持ち悪くなる

余りにも臭いので、どうしても食べ物を口に入れられず、フォークを下す

そんなことを繰り返していました

 

なぜこんなことになるのかと、河津は通訳の塩田三郎を呼び検討するが、皆目わからない

ふと塩田が気づき、 ちょっとお手を拝借と、河津の手の匂いを嗅ぐ

塩田「お前様、どこかで手を洗われましたか」

河津「先刻、ホテルで便所に行ったときに手を洗おうと思ったが、水がないので探していると、棚の上に水の入った壺があったので、それで洗いました」

塩田「・・・いや大変です、それは小便器です・・・」

 

・・・(ー_ー)!!

 

日本人は昔から清潔好きで、用を足した後には手を洗う習慣があり、厠の隣には必ず手を洗う場所(手水場、ちょうずば)がありました

しかし、当時の欧米諸国には、そのような習慣はありません

それどころか、尿を壺に貯めていたという・・・

 

青木梅蔵が、この船旅を

「難儀なること地獄の責も是には過じと思いたり」

=地獄の方がマシ

と記したのも、納得です

 

ちなみに、岩松太郎は河津家からの派遣なので、主君の恥になるこのトピックには触れていません(;^_^A 

 

池田長発(10)旅は辛いのよ・・・(食後しばらくたってからお読みください)

文久3年12月28日(1864年2月5日)、江戸を出発した池田長発以下34名は、上海・香港・セイロンなどを経由して、一路ヨーロッパに向かいます

 

このうち何人かが日記を残しています

 

私が史実として一番参考にしているのは、岩松太郎の「航海日記」(遣外使節日記纂輯. 第三に収録)

 

一番好きなのは理髪師である青木梅蔵のものです

残念ながら、青木梅蔵の日記の原本は第二次世界大戦で焼けてしまい、今は彼の日記を引いた別の本が残るのみです

 

さらに、「自助益田孝翁伝」は、記述は短いものの遠慮がないうえに固有名詞や時系列が正確なので、大変に参考になります

 

これらをまとめると、旅程は次のような様子でした

 

【食事】

文久3年12月28日から翌4年1月7日まで(1864年2月5日から同2月14日まで)、江戸から上海までの航路は、フランスの軍艦であり、貨物船や客船ではありませんでした

そのため、狭いし不潔だし船酔いは酷いし水を被って衣類は濡れるしで、とても乗り心地が悪かった

また、食事も口にも合わない(おフランスだけど軍艦なので)

岩松以上のレベルであれば一応の肉の塊や酒は出るが獣臭いし不衛生なので突き返し、パンのみを受け取るが、おなかは満たされない

益田孝以下になると、牛の頭を大鍋で煮たものが出て、まるで餓鬼・・・

 

そんなとき、町人の方が立ち回りがうまかった

青木梅蔵(理髪師)は、こっそりおもちなどを荷物に忍ばせており、これを食べてしのいでおりました

 

「モチも食ったし、甲板でお天道様でも拝むかなぁ、あぁいい風だ」

出港から数日後のある日、そんな青木の元に、池田がたった一人で突然現れました

お殿様の顔色は青ざめ、ひょろひょろと歩き、まるで死人のようだったそうです

その池田曰く
「せめて、お粥でも・・・と思うのだけど、家来たちまで、まるで死人のようで役に立たない・・・そち、何とかしてくれんか」

青木は大変な名誉と思い、お殿様のために囲い米をかゆにすることにします

船上には真水がありませんので、青木は決死の覚悟で体に縄を括り付けて海水をくみ上げ、かゆを炊きました

火鉢などの持ち込みは固く禁止されていたはずなので、キッチンを借りたのでしょう

海水で炊いたのですから、磯臭いうえにしょっぱかったはずですが、皆でバクバク食べて飢えをしのいだ、という事です

まるでお殿様(池田長発)までが乞食の様にがっついていた、と、青木は書き残しています