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英検1級保持者:通貨危機の前哨戦

池田長発(19)光源氏が幕末に転生したら池田長発になっていた件

(たぶんこうだったんじゃないか劇場)

日本に帰国後の長発、元治元年(1864年)夏から慶応2年(1866年)3月ころまで、長発は約1年半の間、蟄居処分を受けました

 

長発は、寺に寄進をして出家したという体裁をとりつつ、実は烏森の本邸で晴耕雨読の生活を送っておりました

 

フランス公使は、そんな長発の元に、通詞を伴って、ふらりと烏森の本邸を尋ねました

公使「殿、お元気そうで何よりです ー ナポレオン三世陛下は、日本でのあなたへの処分や生活ぶりを心配していますよ」

長発「恐れ多いことです」

 

公使「ところで、立ち入ったことを伺いますが、殿のご家族は?」

長発「私がまだ子供と言ってもいい年のころ、私は養父の娘である絖子と婚姻し、二人の子供を授かりました

   子供のうち一人は早逝しました

   妻の絖子は、二人目の子を出産したのちに他界しました」

公使「(ナポレオン三世陛下が掴まれていた情報通りだ)・・・そして、今、恋人は?」

長発「いません」

公使「あなたは真面目過ぎるのですよ」

1人の画像のようです

公使「人生はうたかたの夢、そして夢のモチーフは愛です」

長発(なんか、いたなぁ、そんなことを言う押しの強い人・・・) 

サラ・ベルナール 1864年ころ、ナダール撮影

 

長発「そうは申されましても、私には亡養父への御恩があり、その娘であった絖子を等閑にするようなことはできません

   また、私の実家筋である旗本池田家からの養子がおりまして、長春といい、既に家督も譲っております」

公使「お子さん一人では・・・この間も麻疹が大流行したではありませんか」

長発「ご心配はありがたくお受けします」

 

公使「さて、私が普段から懇意にしている蜂谷主殿より御遣い物がありまして、その娘の富子さんにもってきてもらいました」

長発「有難うございます」

公使「富子さんは、お美しいばかりでなく大変に知性も深く、フランス語がおできになりますのでこうやって同伴していただいており、和算にも通じておられて謎解き遊びにも通じ、航海予定策定にも協力していただくほどですが、決してその高い知性をひけらかすことなく、心根も優しく情も深く心配りも細やかで、こちらではとても助かっています」(←まさにその富子が同時通訳している)

長発「そうでしょうね、富子さんとおっしゃるのですか、この方が素晴らしく美しいフランス語を話されていることは、私もパリにいたからわかりますよ」

 

公使「実は、あなたがパリを立った直後、ナポレオン陛下から『長発の堅物ぶりを何とかしろ』とのお言葉がありました」

長発「御冗談を」

公使「本当です ー 陛下のお言葉は、上海までは電信で、その先は軍艦で、あなた方の帰国よりも早く江戸に着きました」

長発「そのようなことが」

公使「早速、私は身元・心根・知性などに優れた娘の候補者リストを作り、もちろん娘たちの意向も確認しました」

長発(苦笑)

公使「長発さん、あなたは大人気ですよ」

長発「まさか、世間では『長発はパリで頭がおかしくなった』ということにされていますよ」

公使「それは尊王攘夷派からあなたを守るための方便でしょう

   それはともかく、この蜂谷富子さんは、候補者の中でも最も素晴らしい方」

長発「・・・お心遣いはありがたいものの、今の段階で継室をとるのは、亡父に対しては失礼ですし、亡くなって間のない絖子が不憫ですし・・・」

富子(亡室の名を繰り返す長発の様子を見て、長発の亡室への断ち切れぬ思いを察する)

公使「いや、話を急ぎ過ぎましたか.... L'amour peut prendre du temps. Mais en même temps, l'amour s'échappe rapidement.」

富子(憧れの長発を前に、失恋を察し、声に詰まって同時通訳を中断、目に涙を浮かべる)

長発(外堀、埋められてる?)

 

・・・

 ◎池田長発(池田長休の4男、天保7年7月23日江戸西窪生まれ、嘉永5年11月25日池田長溥の養子となる、明治12年9月12日死去)

 

1 池田絖子(天保11年1月29日生まれ)(池田長発の室)(蜂谷富子が側室ではなく継室とされているので、サハ子を出産後まもなく絖子は亡くなられたのかも)

  🌟婚姻により改姓したのではなく、長発の養父である池田長溥の実子
  ①女児:万延元年5月6日江戸烏森本邸生まれ、同8日同邸にて死去
  ②サハ子:文久元年5月15日江戸烏森本邸生まれ、元治元年7月23日長春と婚約するも婚儀に及ばず、明治10年7月20日岡山後楽園にて死去

 

2 蜂谷富子(継室)
  ③珀子:慶応元年4月28日江戸烏森本邸生まれ、同3年7月8日同邸にて死去
  ⑤田鶴吉:慶応2年12月23日江戸烏森本邸生まれ、同3年8月26日同邸にて死去
🌟⑥蓮子明治元年6月17日京都御池屋敷(岡山へ引っ越しの旅中)生まれ、同17年7月10日に長春と婚儀、明治21年9月13日家督相続
     ⇒💖釣子:明治18年3月25日岡山天瀬生まれ
  ⑧駒吉:明治3年1月23日岡山内山下生まれ、同4年6月13日に死去

 

3 上田タマ子
  ④東寧丸:慶応元年5月15日江戸烏森本邸生まれ、7月8日同邸にて死去

 

4 庄司ハル子
  ⑦通子:明治2年5月6日岡山内山下生まれ、同3年7月16日死去
  ⑨磯吉:明治3年閏10月3日岡山内山下生まれ、同4年5月11日死去

 

5 森リウ子
  ⑨摂吉:明治3年9月8日岡山内山下生まれ、同5年1月4日死去

 

🌟長春(池田長顕の5男、文久元年5月25日生まれ、元治元年5月23日長発の養子となる、慶応2年8月4日陸軍奉行並支配、同3年1月27日海軍奉行並支配、明治21年7月31日死去)

 

🌟夫婦同姓は1898年(明治31年)の民法施行以降、英米法圏の女性差別の慣習法が輸入されたもの

 しかし、長発の時代である幕末~明治中期当時にはこのような無粋な性差別はなく、夫婦別姓(別氏)です

 また、長発の家督は、長発→長春(養子)→蓮子(実子)の順で相続されています

 

🌟当時の乳幼児死亡率の高さから、名家を残すには柔軟な養子制度と一夫多妻(または一妻多夫)が必要であったことが伺われます

 今は乳幼児死亡率は低くても、そもそも子供が生まれにくい ー これ、ちょっと考えたほうがいいかもしれない

池田長発(18)心学館掲牌三則

井原市史Ⅳ 23ページ

長池田長発「心学館掲牌三則」

明治2年(1869年)2月

 

汝等領民、須早入此館、識文字以明孝悌、以勤稼穡世業

学之根本、須以朱子白鹿洞掲示及孝経大学為主、而広渉百子固不妨

詩書勤乃有、不勤腹空虚、是韓文公之詩也、入是館者、須以勤為最第一事

 

右三則、是今茲己巳二月所定也、後更俟改張、応置教頭以斟酌増損矣

 

・・・

最後には

「これは現時点のものだから、後に変更可能」

としており、長発の柔軟な思考が伺われます

 

その他、教頭を置く予定で、長発が専制君主になる気は全くなかったことが分かります

 

さらに、庶民(領民)向けの学校を考えていたようで

「文字を学ぶなどしながらも、しっかり働こうね」

という内容になっています

 

つまり、長発は、国の学制発布(明治5年)や福沢諭吉の「学問ノススメ」(明治3年ころ)よりも早く、庶民の学習の場を提供する準備を進めていたのでした

しかも、庶民向けの実学の場を無償で提供するという、言うは易し行うは難しを言行一致して実行しました

 

こうしてみると、心学館が尋常元小学校となったのは、自然な流れです

 

そういう長発の先見の明と熱いパッションは分かるんですが、漢字がめちゃめちゃ難しい

まずもって「掲牌」ってなんですか?と

そういう素晴らしすぎる漢文ゆえ、未だに誰もネットに掲載しておらず、したがってコピペもできず、漢字の苦手な私が井原市史から手打ちで書き写す際には四苦八苦しました😿

間違っていたらごめんなさい

こちらをご購入の上、確認してくださいませ

頒布図書 (city.ibara.okayama.jp)

池田長発(17)心学館と尋常元小学校設立

池田長発は、井原知行所旗本池田筑後守陣屋跡を「心学館」という私塾設立に使うつもりで、明治2年あたりから着々と準備を進めていました

 

ところが、その4年後の明治6年1873年)3月、心学館の予定地であった井原知行所旗本池田筑後守陣屋跡は、長発を名代とする長春からの寄贈により、尋常元之小学となりました

 

(井原小学校)

令和2年度学校紹介 - 井原市教育委員会ホームページ (city.ibara.okayama.jp)

(2021年3月現在情報)

Taro-R2学校要覧1~9 (city.ibara.okayama.jp)

 

このように、長発が心学館の準備を中断し、尋常小学校に寄付したことは、一般には急展開と考えられています

 

しかし、心学館掲牌三則を読むと、長発は心学館を領民向けの読み書きそろばんを中心とした学校にするつもりであったことが分かりますし、その他の事情から見ても自然な流れであったことが伺われます

 

・・・

ところで、その1年前、明治5年(1872年)、明治政府は、フランスの小学校を模範とする、性差別も門地差別も経済的差別もなく国民に等しく普通教育を広めることを目的とする尋常小学校設立などを定めた、学制を発布しました

 

この尋常小学校設立は地元の経費で賄われることとされたため、地方公共団体や地元住民の経済的・人的負担が重く、全国の施行状況にはばらつきがありました

 

明治12年ころには尋常小学校建設中止などの逆行すら見られるほどでした

 

当時の井原領でも、井原知行所旗本池田筑後守陣屋跡を尋常小学校として利用できれば、領民は大いに助かりました

 

図説 尼崎の歴史-近代編 (city.amagasaki.hyogo.jp)

四 小学校の普及と就学状況:文部科学省 (mext.go.jp)

 

・・・ 

また、当初の学制の運用実態としては、私塾で尋常小学校を代替することもできましたが、心学館についていえばかなり微妙な状況でした

 

何故かというと、井原のおとなり備中国後月郡では、一橋徳川家徳川慶喜のいわば実家)らが運営していた興譲館朱子学中心、現在は興譲館高等学校)が既にあったためです

 

その近くの井原領で長発が朱子学を柱とする心学館を設立すれば、いかに領民向けの学校という体裁があったにせよ、幕府派が集結しかねない

 

そうすると、現実問題として、長発が朝廷(明治政府)に恭順の意を表したことを台無しにする危険性があります

 

・・・

心学館と尋常小学校のゴールは領民の教育という部分で共通している、しかも尋常小学校はフランスの学校制度に倣った学制だという、さらに長発が尋常小学校用の土地建物を寄贈すれば領民の負担を回避できる

そういう事情を総合的に考慮し、柔軟な長発はさらっと方向転換して井原知行所旗本池田筑後守陣屋跡を寄贈した・・・

実に自然な流れです

池田長発(16)長発による慶喜批判と朝廷への忠誠宣誓

幕府が推奨していた「朱子学」に優秀だった長発

 

同時に、彼は、納得すればアッサリ方向転換できるという、柔軟な気質の持ち主です

 

慶応4年(1868年)5月18日の池田長春誓書(長発が長春の名代として代書)では、徳川慶喜を鋭くディスり、朝廷への忠誠を誓っています

 

井原市史Ⅳ pp22「五 池田長春誓書 慶應4年(1868年)5月18日」

「朝政御一新之折柄、徳川慶喜反逆顕然ニ付、大義従速上京奉窺天意処、不図今般莫大之皇恩ヲ以、本領安堵被仰付冥加至極難有仕合奉存候今後王事尽心勤労御誓文奉体、天地神明誓、子孫違背無之、謹奉親親書如件

 慶應4年戌辰5月18日

 池田福次郎名代 池田可軒 (花押)」

 

(漢字がむずかしくて、写すのが大変でした・・・)

 

ちなみに、当時の他の藩主や領主たちの多くが、この手の誓書を朝廷に出しました

鳥羽伏見の戦い慶喜逃亡)から5か月ほど経過、慶喜の人望は失われ、幕府側の負けは明らかであり、しかも朝廷は慶喜の処遇を穏便に済ます意向で、藩主・領主らにとって残された問題は領地の安堵と領民の安全確保だったためです

 

自叙益田孝翁伝 pp67~68 

「昨年(大正13年語る)、藤波さんの関係しておられる明治天皇御事績編纂局でいろいろの資料を拝見したが、その中に、明治天皇が討幕軍総督に賜った一つの宸翰がある。そのお写真を拝観したが、その宸翰には徳川の旧勲を没すべからずと書かれてある。この宸翰があるからには、すでに廟議は決していたはずで、あの場合西郷が京都まで行く必要はないわけである。

 それはとにかくもとして、私はこの宸翰の写真を拝観して、さすがに明治天皇は晴明であらせられたと深く感激した。」

 

・・・

更に深読みすると、江戸にいるはずの長発は、鳥羽伏見の戦いのころ、京都あたりに家族と滞在しています

これでは、長発自身の幕府側への関与が疑われても仕方がない

そのため、長発は、殊更に朝廷に対する忠心を示す必要があったのでしょう

池田長発(15)岡山での池田長発の暮らし

1867年の秋から1868年の早春にかけて、長発は江戸の屋敷を引き払いました

そして、長春(養子)その他の家のものを連れ、岡山に移り住みました

 

以降の長発の暮らしは

「当初の予定では岡山滞在は一時的なもので、目的地はあくまでも井原領だったが、池田長発を慕う岡山藩主らが引き止めたので岡山にとどまり、花鳥風月の暮らしを楽しんだ」

とするのが通説のようです

 

実際に、岡山県岡山市には日本三大名園の一つである後楽園があり、良いところです

(その他、茨城県水戸市偕楽園、石川県金沢市兼六園

ホーム/後楽園 (okayama-korakuen.jp)

 

勉学も盛んで、県立の中高一貫校及び中等教育学校は他の都道府県との比較で確保率(生徒数比率)が高く、私立・公立ともに大学進学実績は素晴らしい

2021年 岡山県立岡山大安寺中等教育学校 東大・京大・難関大学 合格者数 | インターエデュ (inter-edu.com)

 

岡山大学・大学院も、数々の素晴らしい研究成果を上げています

 トップページ - 岡山大学学術成果リポジトリ (okayama-u.ac.jp)

専門的な研究成果が英文で無尽蔵に無償で読める ー ワクワクしますね

 

・・・

もっとも、僭越ながら、私は

「朝廷・明治政府が、岡山藩を通じて、池田長発を監視下に置いた」

と考えています

 

(当時の国内情勢)

明治10年西南戦争まで、まだ明治政府が日本国内を統治しきっているとはいえず、幕府シンパの動きも荒いものがあり、逆に朝廷派が幕府派を血祭りにあげるようなこともありました

 

福沢諭吉福翁自伝によっても、このころまでは日本の治安が極めて悪く、福沢も命を狙われたことが度々あったそうです

 

今、大河ドラマで話題の渋沢栄一もゴリゴリの尊王攘夷派で、幕末には開国派の暗殺を企てたほどでした(実行には至らず)

 

備中松山藩

岡山藩のお隣、備中松山藩(初代藩主池田長幸)では、当時の7代藩主板倉勝静が幕府の要職にあり、鳥羽伏見の戦い~その直後も慶喜とともに大阪にいました

 

そのため、鳥羽・伏見の戦い(慶応4年1月3日~6日、1868年1月27日~30日)が集結した1週間後には、松山藩追討令が朝廷から出され、岡山藩は朝廷から錦の御旗を渡されました

 

岡山藩は、この松山藩追追討令に応じて、藩主不在の松山城などを接収しました

 

また、松山藩では勝静を隠居・親戚の板倉勝弼を養子として家督相続させ、朝廷に鞍替えしました - 松山藩の留守を守る家臣によるクーデターですが、戦闘を回避し領民の被害を回避できたので良し

 

松山藩から追放されたも同然の勝静は、1869年(明治2年)、禁固2年の実刑判決を受けました

 

(井原領に残された文書から見る1868年の痕跡) 

慶應4年正月(日付不明)、井原領知御預けにつき証書

慶應4年1月13日付、松山藩追討人数の書状

慶應4年5月(日付不明)、池田長春本領安堵がようやく発布

慶応4年5月18日付 池田長春誓書(池田可軒すなわち池田長発が名代として作成・徳川慶喜を非難し、朝廷への忠誠を天地神明に誓う内容)

 

長発に対する朝廷の厳しい目と、領民の安全を守ろうとする長発の知性と忍耐が伺われます