10 Percent Happier

英検1級保持者:ペトロフかスタインウェイ(ヨーロッパ)欲しいなぁ・・・

池田長発(20)42歳という天寿(追記・ナポレオン三世金貨)

池田長発は、1879年(明治12年)9月12日、42歳(数えで43歳)、岡山県岡山市で病により生涯を終えました

 

もともと江戸生まれの江戸育ち、江戸っ子

その上、領地は井原ですから、にわか岡山💦

とはいえ、フットワークの軽い彼が10年以上落ち着いて暮らしたのですから、よほど岡山が気に入ったのでしょう

 

現在も長発の墓(岡山市中区 東山墓地)は御家系によって丁寧に維持管理されており、ファンの巡礼も絶えません

シンプルな墓碑は、池田長発自身が生前に用意した筆跡ではないか、という気がします

tomoさんはTwitterを使っています 「太田健一先生の案内で訪ねた池田長発の墓。#世界ふしぎ発見 https://t.co/OYSlJViAJv」 / Twitter

大阪・明石・岡山を巡ってきました(後編) - 幕末掃苔屋 公式ブログ (goo.ne.jp)

 

・・・ 

ところで、池田長発が42歳で没した点について、早すぎる死、と評されることが多いのですが、どうでしょう

 

当時の平均余命は40代前半ですし、維新3傑と比較しても、特段短命という印象は受けません

 

1 木戸孝允

  天保4年6月26日(1833年8月11日) - 明治10年(1877年)5月26日

  京都で病没(大腸がん)

  43歳

 

2 西郷隆盛

  文政10年12月7日(1828年1月23日〉 - 明治10年(1877年)9月24日

  鹿児島にて西南戦争で死没

  49歳

 

3 大久保利通

  文政13年8月10日(1830年9月26日) - 明治11年1878年)5月14日

  東京の紀尾井坂の変にて暗殺

  47歳

 

皆さま、40代で亡くなられています

 

当時がこのような時代であったことを考えると、短命とか悲劇とかいうのは現代日本人の色眼鏡であって、不正確なのでしょう

 

私は、むしろ、長発はとても幸せで充実した人生を送った方、と、お見受けします 

 

(追記)

貸金庫の整理整頓をしていたら、ぽろっと出てきました

ナポレオン三世金貨(20フラン、1867年発行)

大量発行の地金型金貨で、状態もあれだったので価格はお手頃だったような気がします

池田長発のことを知る前にコレクションしていたっていうのが奇遇な感じで好きです

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池田長発(19)光源氏が幕末に転生したら池田長発になっていた件

(たぶんこうだったんじゃないか劇場)

日本に帰国後の長発、元治元年(1864年)夏から慶応2年(1866年)3月ころまで、長発は約1年半の間、蟄居処分を受けました

 

長発は、寺に寄進をして出家したという体裁をとりつつ、実は烏森の本邸で晴耕雨読の生活を送っておりました

 

フランス公使は、そんな長発の元に、通詞を伴って、ふらりと烏森の本邸を尋ねました

公使「殿、お元気そうで何よりです ー ナポレオン三世陛下は、日本でのあなたへの処分や生活ぶりを心配していますよ」

長発「恐れ多いことです」

 

公使「ところで、立ち入ったことを伺いますが、殿のご家族は?」

長発「私がまだ子供と言ってもいい年のころ、私は養父の娘である絖子と婚姻し、二人の子供を授かりました

   子供のうち一人は早逝しました

   妻の絖子は、二人目の子を出産したのちに他界しました」

公使「(ナポレオン三世陛下が掴まれていた情報通りだ)・・・そして、今、恋人は?」

長発「いません」

公使「あなたは真面目過ぎるのですよ」

1人の画像のようです

公使「人生はうたかたの夢、そして夢のモチーフは愛です」

長発(なんか、いたなぁ、そんなことを言う押しの強い人・・・) 

サラ・ベルナール 1864年ころ、ナダール撮影

 

長発「そうは申されましても、私には亡養父への御恩があり、その娘であった絖子を等閑にするようなことはできません

   また、私の実家筋である旗本池田家からの養子がおりまして、長春といい、既に家督も譲っております」

公使「お子さん一人では・・・この間も麻疹が大流行したではありませんか」

長発「ご心配はありがたくお受けします」

 

公使「さて、私が普段から懇意にしている蜂谷主殿より御遣い物がありまして、その娘の富子さんにもってきてもらいました」

長発「有難うございます」

公使「富子さんは、お美しいばかりでなく大変に知性も深く、フランス語がおできになりますのでこうやって同伴していただいており、和算にも通じておられて謎解き遊びにも通じ、航海予定策定にも協力していただくほどですが、決してその高い知性をひけらかすことなく、心根も優しく情も深く心配りも細やかで、こちらではとても助かっています」(←まさにその富子が同時通訳している)

長発「そうでしょうね、富子さんとおっしゃるのですか、この方が素晴らしく美しいフランス語を話されていることは、私もパリにいたからわかりますよ」

 

公使「実は、あなたがパリを立った直後、ナポレオン陛下から『長発の堅物ぶりを何とかしろ』とのお言葉がありました」

長発「御冗談を」

公使「本当です ー 陛下のお言葉は、上海までは電信で、その先は軍艦で、あなた方の帰国よりも早く江戸に着きました」

長発「そのようなことが」

公使「早速、私は身元・心根・知性などに優れた娘の候補者リストを作り、もちろん娘たちの意向も確認しました」

長発(苦笑)

公使「長発さん、あなたは大人気ですよ」

長発「まさか、世間では『長発はパリで頭がおかしくなった』ということにされていますよ」

公使「それは尊王攘夷派からあなたを守るための方便でしょう

   それはともかく、この蜂谷富子さんは、候補者の中でも最も素晴らしい方」

長発「・・・お心遣いはありがたいものの、今の段階で継室をとるのは、亡父に対しては失礼ですし、亡くなって間のない絖子が不憫ですし・・・」

富子(亡室の名を繰り返す長発の様子を見て、長発の亡室への断ち切れぬ思いを察する)

公使「いや、話を急ぎ過ぎましたか.... L'amour peut prendre du temps. Mais en même temps, l'amour s'échappe rapidement.」

富子(憧れの長発を前に、失恋を察し、声に詰まって同時通訳を中断、目に涙を浮かべる)

長発(外堀、埋められてる?)

 

・・・

 ◎池田長発(池田長休の4男、天保7年7月23日江戸西窪生まれ、嘉永5年11月25日池田長溥の養子となる、明治12年9月12日死去)

 

1 池田絖子(天保11年1月29日生まれ)(池田長発の室)(蜂谷富子が側室ではなく継室とされているので、サハ子を出産後まもなく絖子は亡くなられたのかも)

  🌟婚姻により改姓したのではなく、長発の養父である池田長溥の実子
  ①女児:万延元年5月6日江戸烏森本邸生まれ、同8日同邸にて死去
  ②サハ子:文久元年5月15日江戸烏森本邸生まれ、元治元年7月23日長春と婚約するも婚儀に及ばず、明治10年7月20日岡山後楽園にて死去

 

2 蜂谷富子(継室)
  ③珀子:慶応元年4月28日江戸烏森本邸生まれ、同3年7月8日同邸にて死去
  ⑤田鶴吉:慶応2年12月23日江戸烏森本邸生まれ、同3年8月26日同邸にて死去
🌟⑥蓮子明治元年6月17日京都御池屋敷(岡山へ引っ越しの旅中)生まれ、同17年7月10日に長春と婚儀、明治21年9月13日家督相続
     ⇒💖釣子:明治18年3月25日岡山天瀬生まれ
  ⑧駒吉:明治3年1月23日岡山内山下生まれ、同4年6月13日に死去

 

3 上田タマ子
  ④東寧丸:慶応元年5月15日江戸烏森本邸生まれ、7月8日同邸にて死去

 

4 庄司ハル子
  ⑦通子:明治2年5月6日岡山内山下生まれ、同3年7月16日死去
  ⑨磯吉:明治3年閏10月3日岡山内山下生まれ、同4年5月11日死去

 

5 森リウ子
  ⑨摂吉:明治3年9月8日岡山内山下生まれ、同5年1月4日死去

 

🌟長春(池田長顕の5男、文久元年5月25日生まれ、元治元年5月23日長発の養子となる、慶応2年8月4日陸軍奉行並支配、同3年1月27日海軍奉行並支配、明治21年7月31日死去)

 

🌟夫婦同姓は1898年(明治31年)の民法施行以降、英米法圏の女性差別の慣習法が輸入されたもの

 しかし、長発の時代である幕末~明治中期当時にはこのような無粋な性差別はなく、夫婦別姓(別氏)です

 また、長発の家督は、長発→長春(養子)→蓮子(実子)の順で相続されています

 

🌟当時の乳幼児死亡率の高さから、名家を残すには柔軟な養子制度と一夫多妻(または一妻多夫)が必要であったことが伺われます

 今は乳幼児死亡率は低くても、そもそも子供が生まれにくい ー これ、ちょっと考えたほうがいいかもしれない

池田長発(18)心学館掲牌三則

井原市史Ⅳ 23ページ

長池田長発「心学館掲牌三則」

明治2年(1869年)2月

 

汝等領民、須早入此館、識文字以明孝悌、以勤稼穡世業

学之根本、須以朱子白鹿洞掲示及孝経大学為主、而広渉百子固不妨

詩書勤乃有、不勤腹空虚、是韓文公之詩也、入是館者、須以勤為最第一事

 

右三則、是今茲己巳二月所定也、後更俟改張、応置教頭以斟酌増損矣

 

・・・

最後には

「これは現時点のものだから、後に変更可能」

としており、長発の柔軟な思考が伺われます

 

その他、教頭を置く予定で、長発が専制君主になる気は全くなかったことが分かります

 

さらに、庶民(領民)向けの学校を考えていたようで

「文字を学ぶなどしながらも、しっかり働こうね」

という内容になっています

 

つまり、長発は、国の学制発布(明治5年)や福沢諭吉の「学問ノススメ」(明治3年ころ)よりも早く、庶民の学習の場を提供する準備を進めていたのでした

しかも、庶民向けの実学の場を無償で提供するという、言うは易し行うは難しを言行一致して実行しました

 

こうしてみると、心学館が尋常元小学校となったのは、自然な流れです

 

そういう長発の先見の明と熱いパッションは分かるんですが、漢字がめちゃめちゃ難しい

まずもって「掲牌」ってなんですか?と

そういう素晴らしすぎる漢文ゆえ、未だに誰もネットに掲載しておらず、したがってコピペもできず、漢字の苦手な私が井原市史から手打ちで書き写す際には四苦八苦しました😿

間違っていたらごめんなさい

こちらをご購入の上、確認してくださいませ

頒布図書 (city.ibara.okayama.jp)

池田長発(17)心学館と尋常元小学校設立

池田長発は、井原知行所旗本池田筑後守陣屋跡を「心学館」という私塾設立に使うつもりで、明治2年あたりから着々と準備を進めていました

 

ところが、その4年後の明治6年1873年)3月、心学館の予定地であった井原知行所旗本池田筑後守陣屋跡は、長発を名代とする長春からの寄贈により、尋常元之小学となりました

 

(井原小学校)

令和2年度学校紹介 - 井原市教育委員会ホームページ (city.ibara.okayama.jp)

(2021年3月現在情報)

Taro-R2学校要覧1~9 (city.ibara.okayama.jp)

 

このように、長発が心学館の準備を中断し、尋常小学校に寄付したことは、一般には急展開と考えられています

 

しかし、心学館掲牌三則を読むと、長発は心学館を領民向けの読み書きそろばんを中心とした学校にするつもりであったことが分かりますし、その他の事情から見ても自然な流れであったことが伺われます

 

・・・

ところで、その1年前、明治5年(1872年)、明治政府は、フランスの小学校を模範とする、性差別も門地差別も経済的差別もなく国民に等しく普通教育を広めることを目的とする尋常小学校設立などを定めた、学制を発布しました

 

この尋常小学校設立は地元の経費で賄われることとされたため、地方公共団体や地元住民の経済的・人的負担が重く、全国の施行状況にはばらつきがありました

 

明治12年ころには尋常小学校建設中止などの逆行すら見られるほどでした

 

当時の井原領でも、井原知行所旗本池田筑後守陣屋跡を尋常小学校として利用できれば、領民は大いに助かりました

 

図説 尼崎の歴史-近代編 (city.amagasaki.hyogo.jp)

四 小学校の普及と就学状況:文部科学省 (mext.go.jp)

 

・・・ 

また、当初の学制の運用実態としては、私塾で尋常小学校を代替することもできましたが、心学館についていえばかなり微妙な状況でした

 

何故かというと、井原のおとなり備中国後月郡では、一橋徳川家徳川慶喜のいわば実家)らが運営していた興譲館朱子学中心、現在は興譲館高等学校)が既にあったためです

 

その近くの井原領で長発が朱子学を柱とする心学館を設立すれば、いかに領民向けの学校という体裁があったにせよ、幕府派が集結しかねない

 

そうすると、現実問題として、長発が朝廷(明治政府)に恭順の意を表したことを台無しにする危険性があります

 

・・・

心学館と尋常小学校のゴールは領民の教育という部分で共通している、しかも尋常小学校はフランスの学校制度に倣った学制だという、さらに長発が尋常小学校用の土地建物を寄贈すれば領民の負担を回避できる

そういう事情を総合的に考慮し、柔軟な長発はさらっと方向転換して井原知行所旗本池田筑後守陣屋跡を寄贈した・・・

実に自然な流れです

池田長発(16)長発による慶喜批判と朝廷への忠誠宣誓

幕府が推奨していた「朱子学」に優秀だった長発

 

同時に、彼は、納得すればアッサリ方向転換できるという、柔軟な気質の持ち主です

 

慶応4年(1868年)5月18日の池田長春誓書(長発が長春の名代として代書)では、徳川慶喜を鋭くディスり、朝廷への忠誠を誓っています

 

井原市史Ⅳ pp22「五 池田長春誓書 慶應4年(1868年)5月18日」

「朝政御一新之折柄、徳川慶喜反逆顕然ニ付、大義従速上京奉窺天意処、不図今般莫大之皇恩ヲ以、本領安堵被仰付冥加至極難有仕合奉存候今後王事尽心勤労御誓文奉体、天地神明誓、子孫違背無之、謹奉親親書如件

 慶應4年戌辰5月18日

 池田福次郎名代 池田可軒 (花押)」

 

(漢字がむずかしくて、写すのが大変でした・・・)

 

ちなみに、当時の他の藩主や領主たちの多くが、この手の誓書を朝廷に出しました

鳥羽伏見の戦い慶喜逃亡)から5か月ほど経過、慶喜の人望は失われ、幕府側の負けは明らかであり、しかも朝廷は慶喜の処遇を穏便に済ます意向で、藩主・領主らにとって残された問題は領地の安堵と領民の安全確保だったためです

 

自叙益田孝翁伝 pp67~68 

「昨年(大正13年語る)、藤波さんの関係しておられる明治天皇御事績編纂局でいろいろの資料を拝見したが、その中に、明治天皇が討幕軍総督に賜った一つの宸翰がある。そのお写真を拝観したが、その宸翰には徳川の旧勲を没すべからずと書かれてある。この宸翰があるからには、すでに廟議は決していたはずで、あの場合西郷が京都まで行く必要はないわけである。

 それはとにかくもとして、私はこの宸翰の写真を拝観して、さすがに明治天皇は晴明であらせられたと深く感激した。」

 

・・・

更に深読みすると、江戸にいるはずの長発は、鳥羽伏見の戦いのころ、京都あたりに家族と滞在しています

これでは、長発自身の幕府側への関与が疑われても仕方がない

そのため、長発は、殊更に朝廷に対する忠心を示す必要があったのでしょう